緩解期の排便

プレドニンをのみ始めると下血、腸内の出血は大抵止まって緩解期に入ります。普通の人は、排便も通常に戻るとお思いでしょうが、ところがどっこいそうは行きません。
いつも通り頑固な便秘、酷い時は10日以上出なかったこともあります。そして突発的な便意と下痢。この繰り返しです。
思うに潰瘍性大腸炎(UC)患者の大部分は、過敏性腸症候群も発症しているケースが多いと思います。私自身もそうでした。何しろトイレにこもって30分以上うんうん唸っても何も出ません。だからといって外に出ると突然に便意、トイレを探しますがなかなか見つかりません。やっとの思いでトイレに駆け込むと出血は無いものの泥状便が大量に出てきます。
こんな事を毎回繰り返していますから、自然といつでもトイレを探しています。トイレに駆け込めないような状況、行列に並んでいる最中や満員電車では非常に不安です。そうこうしている内に「トイレに駆け込めないような状況」になると必ず便意が襲ってくるようになります。しかもどんどん我慢できる時間が短くなってきます。最終的に私は5分も我慢できなくなりました。
他の何か気が散るような事が起これば凌げたりします。不思議と車の運転中は大丈夫ですが、渋滞に嵌るとやはり来ます。いつでもトイレのことを考えるようになってしまいます。既にノイローゼですね。

大腸内視鏡検査で見るとよく判りますが、緩解と再燃増悪を繰り返してるうちに大腸粘膜が再生不可能になってきます。そのため大腸が便をうまく運べなくなってしまいます。便が動けないために詰まってしまい、最終的に下痢で押し出すというUCの悪循環に精神的なものも加わります。「今便意が来たら困るな、どうしよう」と思うと、必ず我慢できないような便意が来てしまいます。
思い出したくないような出来事も経験しましたので、なおさら精神的に病んで来ます。鬱になる人が多いのも頷けます。私は割と楽天家だと思ってましたが、この時期はやはり鬱だったと思います。

最終的に私はリハビリパンツ(いわゆる紙オムツ)を着用しました。大の大人がこれを付けるのは非常に抵抗がありますし、屈辱的だと感じていましたので、なかなか出来ませんでした。そのためにずいぶんと苦しい思いもしたのですが、内科治療期の最後の2年ほど、覚悟を決めてエイヤっとはいてみたら、実に気が楽になりました。いざとなったら粗相ができるのですから、「今便意が来たら困るな、どうしよう」という心理になりにくくなります。
もし躊躇している方がいたら、精神を病む前にリハビリパンツを使う事をお勧めします。特に今は薄手で外からは気づかれないような製品が出てますので、[社員旅行で風呂に入る」とかでなければ、誰にも気づかれずに使用できるでしょう。私ももっと早くに使っていれば、いくつかの思い出したくないような出来事は防げたと思っています。

プレドニン(ステロイド)開始

潰瘍性大腸炎(UC)治療が始まって数年、サラゾピリン、ペンタサだけでは効果が薄くなりました。いよいよステロイドを投与する事になります。UC治療といえばプレドニン、定番薬の登場です。

基本的にはプレドニンとペンタサ、それに免疫抑制剤や整腸剤と組み合わせて投与されます。非常に危険な薬なので、今ではプレドニン大量投与の場合は入院とセットではないかと思われますが、私の場合O医師が私の休めない仕事を考慮してくれたのか、普通に通院しながらの治療を行なっていました。
今でも投与法はほぼ変わらないと思いますが、最初に50mg/1日をガツンと投与します。その後数ヶ月間かけて徐々に減らして最終的に0にします。効果は劇的に効きます。私の場合、どんなに酷い状態でも必ず数日で出血は止まりました。最初のプレドニン投与の時は、5ヶ月ほど掛けて減らし、最終的にはプレドニンを打ち切りペンタサと整腸剤だけで緩解を保たせます。緩解期も1年近くあったと思います。

プレドニンはその強力な症状改善の代償に、非常に危険な副作用を持ちます。私の場合、いわゆる「鳥目」が酷く、夜やちょっと暗い部屋だと何も見えなくなります。特に50mg投与中に夜間運転した時は、突然視野狭窄が起こり横が全く見えなくなり、えらく恐ろしい思いをしました。普通人間の目は両目で140~160度くらい視野角があるものですが、それがほぼ真正面しか見えず、その両側が虹色に光ってるような症状でした。プレドニン投与中の運転はお気をつけください。また。抜け毛が酷く、髪を洗ってブラシでとかすとずるっと抜けてくるようになりました。一時は本気で禿を心配したほどです。
関節痛も結構ありました。和室に布団を敷いて寝ていたので、起き上がるのが一苦労です。まず横を向いてゆっくり立ち上がらないと膝が痛くて力が入りません。夜間トイレに起きて転んでしまった事も数度あります。当時30代だったのに80歳の年寄りになったようでとても不安でした。
ムーンフェイスと言われる、顔がむくんで丸くなる現象は、割と誰でも顕著に出るようです。たいてい知人に「太った?」といわれますが、食欲も増進しますので本当に太る事も多いです。

その他、私には出ませんでしたが、人によっては精神障害、鬱、睡眠障害が出ることもあります。O先生はもし精神的に何かあったらすぐに来るようにと言っていましたが、幸い大きな精神的症状は出ませんでした。
ただUC自体が患者に精神的苦痛を与える病気ですので、鬱になりやすい、また軽い鬱であるケースも多いです。私も内科治療中は今思えばずっと軽い鬱であったと思います。

プレドニン投与の副産物もありました。私は十代の頃から結構なアレルギー体質で、まだそう呼ばれない頃からの「花粉症」持ちですし、尋常性乾癬という皮膚炎も常時どこかに現れています。
それがプレドニン投与中は全く症状が出ません。いつもは春先は辛い季節なのですが、プレドニン投与中は花粉症が出ないので非常に楽が出来ました。プレドニン投与が無くなった今では恋しく思う事もあります。これも依存症なのでしょうか。

繰り返す再燃

最初サラゾピリンで緩解しましたが、1年経たずに再燃してしまいました。
再び大腸内視鏡検査を受けて、サラゾピリンの量を増やされます。多少良くなります。で、また数ヵ月後に再燃。これの繰り返しです。サラゾピリンだけでは無く、整腸剤や漢方薬と組み合わせて処方される事もありました。

何度か再燃を繰り返した後、新しい薬が承認されたとかで、メインの治療薬がペンタサに替わりました。これはサラゾピリンから有効成分を抽出したとかで、副作用が少ないらしいです。元々サラゾピリンはリウマチ薬として開発されたらしいですね。

ペンタサは基本的にサラゾピリンと大きく変わらない薬なので、効果も同様です。使っているうちに体が薬に慣れてきたのか、大きな改善が見られなくなってきました。服用し続けても緩解に至らないうちに再燃増悪になってしまい、その間隔も6ヶ月未満になってきました。途中から免疫抑制剤なども併用するようになって来たのですが、あまり効果は無く更なる強い薬を必要としてきました。

※免疫抑制剤はイムランだと記憶していたのですが、イムランがUCに認可されたのは2006年なので、保険適用にはならないはず。しかしイムランを使った記憶はあるのです。この辺は謎。

内科治療中の食事

当時から、潰瘍性大腸炎の治療の一環として食事療法はよく言われていました。あれが良い、これは良くないなど、後で入る事になる患者会でも情報交換の中心はよく効く民間療法と食事の内容でした。
特に増悪中は中心静脈栄養(IVH)とエレンタールでしのぎながら絶食するという事が当時から行なわれていました。

しかし、私は全くそのような事をしたことが無いのです。当時の内科治療での主治医O先生は食事制限を行なわない方針で、むしろ栄養の偏りや栄養失調を心配されていて、「何でも普通に食べて結構です」と言われていました。
私や料理を作る家内にとっては、非常にありがたい治療方針で、食べるものについて悩む必要はありませんでした。ですので再燃増悪中下血があっても入院治療はせず、普段通りトンカツやカレー、乳製品やラーメンも食べていました。おそらく今治療中のUC患者の方々にとっては驚愕する食事内容だったと思います。これは10年に渡る内科治療を通して変わることがありませんでした。

最近H病院に入院して、若いUC患者と同室になりましたが、今はIBD専門医がいて増悪した患者には絶食治療をちゃんと行なっていました。何も制限が無かった私からは、何日も食事が出来ないのは不憫だと傍で見ておりましたが、考えようによってはこの食生活が災いして早期に外科治療に踏み切らざるを得なかったという可能性もありますので、どちらが良いかは素人の私には判断できませんが、精神衛生上は食べたいものを食べられた事は幸せだったと思っています。

ちなみに油物や乳製品、繊維質、アルコールや炭酸飲料などUC患者に良くないとされているものは数多くあります。正直毎日素うどんをすすってないといけない様な食生活になります。私は全て普通にそれらを食べていました。今治療中の方は反面教師として捉えて下さい。今のH病院が絶食治療を行っているのがその理由です。

サラゾピリンの服用

潰瘍性大腸炎(UC)と判って最初の治療が始まりました。薬はサラゾピリンと整腸剤の服用です。オレンジ色の大型の錠剤、サラゾピリンは当時UC治療の主要な薬でしたが、とにかく大きくて飲みにくかったです。当時は丸型の錠剤でしたが、最近は長円形に変わっているようですね。
これを長期に服用すると、薬剤の色の影響でしょうか、肌がだんだん黄ばんできます。爪も黄色くなってきます。白目も黄ばんできます。尿もまっ黄色です。びっくりしたのは精液も黄色くなります。これのために家内の健康が心配で夜の生活に影響が出ました。実際は影響は無いのですが、当時はインターネットも無いのでそんな情報も入手できず、主治医に聞くのも恥ずかしいので控えるしかありませんでした。

しかし、サラゾピリンは発病当初はよく効きました。数週間の服用で下血は治まり緩解状態に入りました。

※サラゾピリンの影響:男性が長期に服用した場合、精液が減少するという副作用はあるそうです。しかしパートナーへの影響は心配しなくてもいいとのこと。

※緩解(寛解とも書く):この病気になって初めてこの言葉を知りました。症状が治まる状態が継続する事ですが、医師との会話、患者同士の会話でよく出てきます。逆に症状が悪くなる事を「再燃」や「増悪(ぞうあく)」と言ってました。

難病医療費助成手続きをする

確定診断を受けた後は結構忙しいです。潰瘍性大腸炎(UC)は国で定めた指定難病ですので、医療費の助成を受ける事ができます。当時はこの対象は56疾病でした。そのそうそうたる原因不明の難病に潰瘍性大腸炎も名を連ねているのです。ちょっと頭がくらくらしてきます。
医療費助成を受ければ、当時(平成5年頃)は通院で月千円ほど入院は月5千円くらいだったと思いますが、その額以上は自治体(都道府県)が負担してくれます。(実際は都道府県と国が半分ずつですが)
その承認をするのは自治体、私の場合で言えば東京都なので、早速書類を取り寄せ申請しなければなりません。うろ覚えですが、私の場合H病院のカウンセラーが必要書類や手続きのやり方を全てレクチャしてくれたと思います。新規の申請はいつでも出来ますが、承認が降りて医療券が発行されるまで2ヶ月ほど掛かります。
また、毎年夏ごろに更新手続きをしなければならず、大量の申請書類と格闘しなければなりません。病院に書いてもらわねばならない「個人調査票(決まった書式の診断書みたいなもの)」も私の病院の場合6千円掛かりますので(公立病院だともっと安いらしい)、この更新手続きはもっと簡単にして欲しいと二十数年間思い続けていますが一向に変わりません。

当時は指定病院(H病院もそうでした)で受診し、書類が整っていればほぼ100%申請は通るようでした。私も問題無く承認され、晴れて医療券を手にすることが出来ました。これで難病患者の仲間入りです。ちっとも嬉しく無いですが。

確定診断

いつものように早起きしてニフレックを苦労しながら飲み干し、病院に出かけました。
O医師は非常に物腰が穏やかで、学者然とした方です。2度目のCF(大腸内視鏡)検査とあって緊張しました。最初の体験が苦しかったですし、しかも今回は悪い結果(最悪大腸癌?)も予想されるからです。

痛いの嫌だなあ・・・なんて思いながら検査用ベッドに横向きに寝て、お尻にキシロカインゼリーが塗り込められ、いよいよ入ってきます。
あれ?痛くないや。そう思う間にカメラはずんずん奥に入っていきます。大分奥で出血箇所がありました。「う~ん」などとO医師はつぶやきながら、「この辺が大分出血してますね」などとモニターをこちらに向けて教えてくれます。「少し空気を入れますね」と言われましたが、こちらも全然痛くありませんし張った感じもありません。必要最小限の量だけ入れているようです。
「もう終わります、抜きますね。」とカメラをするする抜かれてあっけなく終了。全く傷みや苦しさとは無縁のCF検査でした。上手な医師に掛かるとこんなにも違うものかと、感嘆するほどです。この後数人の医師にCF検査をやっていただきましたが、未だにO医師を超える技量の人はいません。年三千例(後に入院中看護師から聴いた話)は伊達じゃないと思いました。

ベッドで30分ほど休み、空気も入ったのでトイレでおならも出て落ち着いた頃に、内視鏡室横の机でカメラの映像のモニタを見ながらO先生から検査の結果を聞きます。
「潰瘍性大腸炎ですね。難病指定されていますので手続きをしましょう。医療費が助成されます。」
はて、「かいようせいだいちょうえん」?なんじゃそりゃ。
「大腸に炎症が出来てびらんになり、出血を繰り返す病気です。原因はまだ判っていません。長期にわたる治療が必要です。癌化して大腸がんになる場合もあります。」
う~む。青天の霹靂とはまさにこのこと。今すぐ命に関わる病ではないと言われてややほっとしましたが、この頃はまだ聞いた事の無い病気でした。マスコミで潰瘍性大腸炎(UC)が話題になってくるのはもう2~3年後の事です。
自分の病名が判ったことへの安心と、難病に罹ってしまった不安とが交錯した私の記念すべき確定診断を貰った1日でした。平成5年4月の出来事です。

転居

本格的な発病後1年くらい、私が30歳を迎える頃、それまでは23区内に住んでいましたが、2人目の子供ができた事もあり多摩地区のかなりマイナーな都市に転居しました。
当時バブルのさなか、弾ける一歩手前くらいだったのですが、とても23区内では予算が合わず、狭山丘陵に程近い田舎、別の言い方をすれば子供を育てるには最適(笑)の小都市なのですが、一応東京都です(苦笑)。越した当初は宅配ピザ屋もレンタルビデオも無い様など田舎でしたのでどうなる事やらと内心不安でした。まあそんな事は本題とは関係無いのでどうでもいいですね。幸いにしてすぐにピザ屋もツタヤも出来ましたし、大きなスーパーマーケットも近所に建ち、発展著しくなり格段に済みやすくなりました。

病状は数ヶ月全く下血も無く、(もちろん突発的な下痢と便秘を繰り返すのは続いていましたが)自身では健康になったと思っていました。
しかし、そんなある日再び下痢の後に泥状の赤黒い便が、今度はかなり大量に出てきました。ちょっと気が遠くなるような気分でした。

以前の病院はずいぶんと遠くなってしまったので通うには面倒です。新居は小都市とは言え立派な総合病院がありました。H病院です。
H病院はそれまで「入ったら二度と出て来れない」などと噂の立つような老人病院だったそうですが、当時経営が変わり最新の設備を備える総合病院に生まれ変わろうとしているところでした。建物も6階建ての立派なビルに生まれ変わったところで、一部残るトタン屋根の貧相な旧館と対照的で、相当に力を入れているのが判りました。

紹介状も無い全くの初診でしたので、受付でこれまでの経過を色々と聞かれ、ずいぶん待たされた後に消化器科のO先生を受診しました。この後10年に渡ってお世話になるO先生は、内視鏡のスペシャリストで当時1年に3千件内視鏡検査を行うという事ですが、全くそんな事は露知らず、不安の中の受診です。
O先生は一通り私の話を聞いた後、「非常に危険な状況です。すぐに内視鏡検査を受けてください。明日枠を空けますので受けて下さい。」と言われました。そんな状況は想像していなかったので、とても驚きました。ガンの可能性も高いと判断されたようです。私は仕事を急に休めないので躊躇していたのですが、「あまり先延ばしに出来ない状態と考えます。ご自分の健康を考えるならすぐに検査した方がいいです。」とのこと。仕方ないので覚悟を決めて翌日検査を受けることにし、病院からすぐに会社に電話をし翌日休むと伝え、薬局でニフレックと下剤を貰って帰りました。またこれやんなくちゃならないのかというウンザリ感がかなりありました。

最初の病院

紹介されたのは、杉並区にある結構大きな総合病院「K病院」でした。自宅からも自転車でいける距離で助かります。

そこで初めて「大腸内視鏡検査(通称CF)」を行ないました。前日夜は消化の良いものだけを軽く食べ、下剤を飲みます。検査当日朝からニフレックという大腸洗浄剤を2リットル飲みます。これが糞不味いの何の。量も量ですから吐き気との戦いになります。
ニフレックと聞くと潰瘍性大腸炎及びクローンなどのIBD(炎症性腸疾患)患者の方たちは皆さんうんざりした顔になるでしょう。それだけこの病気ではメジャーであり避けられない検査です。(最近ではそんなに大量に飲まなくていい薬もありますが、未だにニフレックを使い続けている病院も多いです)
ニフレックを飲み続けながら、すさまじい水便を出して腸内を空っぽにします。ニフレックは2時間で飲み切らねばなりませんが、その後に黄色い透明の水便が出てきたら準備完了です。多少のカス程度なら許してもらえる事もあります。

CF検査は胃カメラとほぼ同じカメラをお尻から入れて大腸内を目視で確認する検査です。通常は麻酔や痛み止めなどは使わず、患者派は「しらふ」で検査に入ります。腸を膨らませた方が中を見やすいので、空気をガンガン入れます。また、カメラが曲がった場所で突っかかると非常に痛いです。そしてそういう事もあり、検査医の技量によって、患者の負担が全く違う検査でもあります。
最初の体験となったこの検査、脂汗が出るような激痛との戦いでした。非常に苦しかったです。二度とこの検査は御免だとこの時は思いますが、それは覆されます。それはもう少し後の話。今回はこの検査の事だけ書きます。

しらふで意識があるまま検査を受けていますから、検査中はモニター画面をこちらにも見えるようにして、医師が解説してくれます。私の大腸内はところどころ潰瘍のような穴が開きそこから出血していました。白斑のような部分もいくつか見えました。検査が終わって少し休ませてもらった後に、診察室で所見を聞きます。

その医師の話では「大腸炎ではあると思うが、原因はよく判らない」とのこと。この当時「潰瘍性大腸炎」はまだマイナーで特殊な病気であり、医師内でも認知度が低かったのではないかと思われます。その医師は整腸剤と漢方薬(うろ覚えですが同病の方ならみんな知ってるツムラのアレだったような)でしばらく様子を見ましょう」とのことでした。
病気がはっきりして、治療が自信を持って始められるならいいのですが、この宙ぶらりんの状況は不安が増すばかり。しかし、何故かこの治療でいったん病状は快方へ向かいます。出血は減り、便通もなんとなく正常に近くなった気がします。
今考えると不思議ですが、まあ病気にも波がありますから、たまたまそれと重なって一時的に静まっただけですね。

発病!

転職問題も落ち着いて来た頃です。かなりの便秘をするようになって来ました。一週間ほど出ないことはざらです。便秘の後、我慢できない便意を感じ、最初の硬い便の後に泥状の便が出てくるようになりました。ある日、そういった排便の最後にに赤黒い泥状便が出てきました。量としてはそれほど多くはありませんが、ちょっとショックでした。素人目に見ても「痔」ではない事が明らかだったからです。よく便を観察すると、硬い便のところにもストライプ上にこすれた血の様なものが付いています。

出血は「痔」のような肛門近くでは無く、もっと奥で起きているようです。慌てて休みを取り、最初行った所とは別の開業医に行きました。一度行ったきりで放置していたので最初のクリニックには行き辛かったのです。

次の医院の医者は、一通り私の話を聞いた後、検査をしましょうといいました。バリウムを肛門から腸に入れてレントゲンを撮る検査です。
これは非常に苦痛でした。もう私の肛門は緩くなっているのか、どんなに我慢しろと言われても、バリウムが溢れて出てきてしまうのです。しかもレントゲン台の上で上を向かされたり横を向かされたり、台が傾いたり。オマケに肛門から大量の空気を入れられ、腹はパンパンになるし、これで漏らすなと言う方が無理です。
レントゲン台の上で肛門からバリウムを撒き散らしながら、苦痛と恥ずかしさで泣きそうでした。

検査を終えて医師の診断は、「腸の炎症でしょう」という事でした。私もレントゲン写真を見ましたが、大腸の1/3ほどにブツブツとした「点」が大量に見られます。
その医師は、もっと大きな病院で再検査をすることを勧め、紹介状を書いてくれました。ひとまず何の病気かはよく判らず、その病院での再検査の結果を待たねばなりません。

最初の通院

「痔」が一向に治らないので、開業医の胃腸クリニックに行きました。
簡単な問診の後、お尻の触診があり、ろくに検査もせずやはり「痔」という結果に。今回はちゃんと処方された薬です。

しかし良くなったのか、ならなかったのか、この頃一時的に出血も止まりました。そのため、もう直ったと自己判断し、胃腸クリニックは一度行っただけです。しかし、便意を感じると我慢する事が徐々に難しくなってきました。そういう時はかなり柔らかめの便が出てきます。
多分我慢が効かなくなっているのは精神的な問題、または過敏性腸症候群ではないかと自己判断していました。

当時は私の転職もあり、「痔」どころではなかったので、この問題は完全に放置していました。しかし体の内部では徐々に進行していたのでしょう。

痔?!!

実のところ、どの時点を「発病」としたらいいか、私にも判りません。私は色々な手続き上の処理では、はっきりと病名が付いた「確定診断」が出た日を発病としていますが、実際にはそれ以前から徐々に症状が出ています。しかし、その原因が本当にUCだったのかどうかについては今となっては分かりません。何件も医者を回って「潰瘍性大腸炎」とは出なかった訳ですから。しかし、最初に血を見た日は今でもはっきり覚えています。

ある日、便通の後ポタポタと鮮血が肛門から落ちてきました。仕事が一通り終わり、東北道の羽生PAで軽く仮眠を取り、便意を感じてトイレに行きました。ごく普通の固めの便でした。
それがすべてで終わった後、数滴でしょうか真っ赤な血がポタポタと。驚きましたが、鮮血ってほんの数滴で、便器を真っ赤に染めるほど広がるんですね。

そこで感じたことは、「あぁ痔になっちゃったか」です。トラックドライバーの職業病とも言える病気ですが、様々な話は聞いていましたし、同僚にも多かったです。
早速会社に戻り、同僚たちに話をしましたが、「お前もやっと一人前の運転手だね」などと言われる始末。よく効く売薬の話などを仕入れて早速次の休日に買いに行きました。座薬型の薬です。当時は完全に「切れ痔」だと思っていました。何の疑いも無く。

しかし、市販の痔の薬では一向に良くなりません。いつも排便後にポタポタと出血していました。それでもまだ出血量が少ないのと、便自体は普通だったのでそのまま放置状態が続きました。

腹の調子がおかしくなる

盛大な下痢から程なくして、私の腸に変調が始まりました。非常に腹を壊しやすくなり、またトイレを我慢できなくなったのです。運転中に便意を感じるとほんの数分で限界を迎えます。何度かトラックを道端に停め、茂みに逃げ込んで用を足したこともありました。
これが郊外ならいいのですが、繁華街や首都高速の渋滞中だと困ります。幸いにして運転席の後ろにベッドのある4トン車でしたから、とりあえず一時停止できる場所さえ確保できれば、コンビニのビニールにでも出すことができます。

しかしこれが続くと便意を感じることが恐怖になってきます。UCは精神的に病むことも多い病気ですが、私もこの頃から少しずつおかしくなっていったように思います。
今思えば、この頃が発病初期と言える気もしますが、当時の私には自分が重大な難病に罹り始めているなどという認識は露程も無く、単に「腹を下しやすくなったなあ」という4気持ちでしかありませんでした。
しかしこの後から徐々に変調が始まります。

 

今となって思えば~発病前夜?

それは25歳頃でしたでしょうか?当時私は仙台から出てきた当初の夢に破れて、生活のために運送業に従事していました。仕事はとてもハードで、午前2時に4トントラックに手積みで荷物を積み込み数か所を回って手降ろしで配送、終了は夜の7時ころでしたが、配送間違いなどがあると当日中に対処しなければならないため、再度回り直し、夜10時を過ぎるなんてのもざらでした。そしてまた翌日未明から仕事です。

ある日、積み込みをしていると、急に猛烈な腹痛に襲われました。これがまた倉庫からトイレまで数百メートルあるのです、何とかたどり着きましたがズボンを下した後にパンツを下し・・・というところで我慢できず。ほとんど固形物の無いまるっきりの水便でした。
このような水便なので、深夜のトイレでパンツを水洗いし、履きなおすことでどうにか仕事復帰。当時一緒に積み込みを手伝ってくれた人は気づいたでしょうか?臭いは自身ではそれほど無かったと思っていましたが、今思えばトイレの帰りも遅いしうすうす気づいてたのかもしれません。まあ武士の情けだったのでしょうね。

今思えば、これがきっかけのように始まりました。

少年期~青年期

私は幼少期に急性腎炎を患っていますが、20代前半までは割と健康な方だと信じていました。ただ、中学時代から結構重い花粉症(当時はまだこの名前も浸透してなかったですね)があり、20歳ころからは尋常性乾癬という皮膚病も追加され、自身が少々アレルギー体質だという事を自覚していきました。

内臓に関しては、19歳ころに十二指腸潰瘍を患いましたが、比較的短期に投薬治療だけで全快しています。仙台から親元を離れて東京で一人暮らしを始めた当初だったので、医者にはストレスと不摂生な生活が原因じゃないかと言われていました。

子供時代は腹を下した経験はそれほど多くありません。小学5年生くらいに水のような下痢を一度やった記憶があるだけで、その後は20代中盤まで普通でした。