第二期手術へ向けて

術後3週間くらいになると、ほぼ手術痕も治り、ストマの扱いにも慣れてきます。そろそろ第二期手術のスケジュールも決めて欲しいものですが、排便状態は相変わらずのジャバジャバな水便。刺激性も強くストマ接着面から漏れた腸液での皮膚のびらんもあり、そこに便が触れると痛みを感じます。
主治医のK先生(内科治療の内はO先生が主治医でしたが、手術で外科治療のスキームに入ったので、主治医は執刀医のK先生になりました)は、「一旦退院して半年後くらいに第二期手術を受けてはどうか?」と提案してきました。
私は会社に治療計画として、「二ヶ月入院で二期手術まで行なって退院、その後四ヶ月の自宅療養の後に会社復帰」と提出していたので、当初のスケジュールで行なって欲しいと言いました。

実のところ、これほど水便が続くとは私もK先生も予想外だったようで、このまま一時ストマを閉じて肛門に繋げても、排便がコントロール出来ず生活に苦労するのではないかと言う危惧でK先生はスケジュール変更を提案したのです。
しかし、二期手術を行なえば、約30cm腸が長く使えることと、一番水分吸収が期待できるJパウチ(小腸の端を折り曲げて袋状に加工した大腸と直腸に替わる部分)を便が通るために、今よりもずっと便の水分は減るのではないかと言う期待もありました。
何度かK先生と話し合い、当初の予定通り7月に第二期手術を行なって再び便を肛門から排出することが決まりました。

第二期手術をするに当たって、いくつか課題も出されました。体力が非常に落ちているので、それを回復させること。もうひとつは多少柔らかい便でも漏れないように、肛門の括約筋を鍛えておく事です。

体力に関しては、一週間もベッドで寝たきりになると、人間の筋力はかなり落ちてしまいます。少し動くと息切れするでしょう。それが大手術をして一ヶ月以上の入院をしているのですから大変です。特に当時の私はお腹の中を相当切っている上にそれが治りかけているものですから、腹の中にバネが入っているような感じで背筋を伸ばして立つ事が困難でした。K先生にも「そんなに背中を丸めていたら背骨が曲がっちゃうよ」と言われていました。
ですので手術が決まった翌日から、今までに増して歩き始めました。特に効果的だったのが階段の上り下りです。5階病棟なので1階と往復するのがベストですが、最初の内はワンフロア移動もままなりません。筋力も足りず心肺能力も足りず、階段を登る事ができません。まずは1階降りてまた戻る事から始め、二期手術前にはどうにか1階~5階を登れるようになりました。

問題だったのが肛門括約筋です。広い障害者トイレに注腸セットを置いて、ストマの肛門側の穴にぬるい温水を流し込んでそれを我慢します。すぐに肛門から出てしまったらNG。それを看護師立会いの下で行ないます。複数の看護師さんの前で下半身裸になって行なうので普通なら恥ずかしいのですが、もう既に手術後何十回となく担当看護師さんたちには見られてますので、慣れきって全然平気になってしまいました。若い看護師さんとも軽口を言えるほど皆仲良かったし、むしろ変に恥ずかしがる方が後から恥ずかしくなるでしょう。でもいくら看護師さんと仲良くなってもエロネタは厳禁ですよ、一発で総スカンされますからね。
で、そのストマ注腸ですが、何度やってもジャーとすぐにお尻から出てきてしまいます。「頑張ってー」と看護師さんたちに励まされるのですが、なかなか上手く出来ません。もちろん肛門周辺に大分メスが入っているので括約筋の締まりが悪いのです。しかし何とかしないと二期手術が出来ません。毎日30分ほどやってましたが、一週間ほど経ってやっと1分ほど止められるようになりました。まあ止められると言っても一気に出ないだけでポタポタとは漏れるんですけどね。でまたこれが後々響いて来るわけです。

兎にも角にもひとまず二期手術の準備が整いました。日韓ワールドカップの決勝も病室のテレビで観て、さあ第二期手術です。

入院中の人工肛門はパンクとの戦い

大腸全摘出の第一期手術では人工肛門(ストーマ)が造設されます。この手術でのストーマは一時人工肛門といって、腸管の途中で外に排出するように出来ているので、穴が2つあります。胃から便が通って出てくる穴と、肛門に続く穴です。

もちろん私にとって初めてのストマですが、これが結構な頻度でトラブルを引き起こしました。ストマ自体の出来は今思い出してもかなり良い方だったと思います。大きさも手ごろで高さもあり、看護師さんたちも「よく出来たいいストマ」と言っていました。
※人工肛門の英語名はstoma(ストーマ)ですが、日本の病院などで口語的に言う時はストマと伸ばさない事の方が多いです。もちろんどちらでも通じます。

術後一週間経つと食事も始まり便量はかなり増えてきますが、小腸人工肛門(イレオストミー=通称イレオ)の作りたての内は大量の腸液もそれに加えて出てきます。ガスもかなり出ますので、排出や交換が間に合わずパウチの取り付け面から漏れて来るのです。これを通称パンクと言います。
術後一定期間は、ストマからの便量は看護師によって管理されていて、私が勝手に排出できないことになっていました。そしてストマの交換も看護師がやってくれていたのですが、特に術後パウチを使っていた時はその容量の無さからあっという間にパンパンになってしまいます。あれ、お腹が何か濡れてる? と思った時はもう遅く、ベッドは酷い状況になります。何しろイレオの便はほとんど水便なので、看護師はその度にパウチの張替えとベッドの掃除、シーツ交換をやる羽目になります。

多分その頃の病棟もまだUCでのイレオストマの経験がそれほど無く、手探りだったのかと思います。術後パウチの次も低容量のパウチでやはりパンクを繰り返しました。これが多い日は一日に数度発生します。その度にナースコールして処理をしてもらうのですが、その情けなさと申し訳ない気持ちは今でも忘れられません。その度に看護師さんはニコニコとやってきて「仕方ないよー」と笑ってくれるのですが、内心「またかよー」と思っていたでしょう。コロンボ(H病院ではベッドシーツの上に敷く防水シートをそう呼んでます)が敷いてあるならいいのですが、シーツ交換時にそれを忘れていた場合悲惨です。マットまで染みてしまいますから、ベッド交換して翌日看護助手さんが大変な思いをしてマットの掃除をしなければなりません。ストマ患者のベッドにコロンボは必須なのです。
その後、病棟の看護師長がH病院でメインに使っていたストマパウチの会社「コロプラスト」に相談して、イレオ用のパウチにパイプを付けて大容量の外部タンクに流し込むようにしてからは、大分そのパターンのパンクは減りました。先日ストマの再増設手術をH病院で十数年ぶりに行ないましたが、術後最初のパウチ交換でそのパイプで外部タンクに繋げたので、「あー自分のケースが経験則として役に立っているのかなあ」と思いました。

しかし、ストマのパンクの原因は物理的に容量オーバーする事だけではありません。何度もパンクしていると強烈なアルカリ性の腸液に肌負けしてびらんが発生します。その部分の接着が弱くなりそこから漏れることもあります。また、起き上がる時にストマの位置の皮膚に皺が寄る場合もそこから漏れやすいです。
「何で漏るのよ~」と叫びたくなるくらい初期は激しくパンクしていました。術後半月ほど経つと、自分でストマを張り替えるようになり、またコロプラスト営業さんから色々な大容量ストマをサンプルでいただいて試す事により、徐々にパンク頻度は下がっていきましたが、何よりストマ患者が最初に心折れやすくなるのはこのパンクが原因です。
イレオといえど徐々に腸液も減ってきますし、ロペミンなどの薬でコントロールしながらだんだんとパンクしないように管理する事ができます。自分でストマを管理するようになれば、パンクのパターンもだんだん覚えてきて対処できますし、いざパンクした場合の処置も慣れてきますので、それほどこのことを気に病む事も無くなりましたが、やはり最初の内は大変でした。
ストマについては書く事が多いので、そのうちそれだけのページを作りたいと思っています。

※人工肛門(ストマ)の装具(パウチ)は、手術後数日は病院の在庫を使わせてもらえますが、その後は自費で買わねばなりません。これがけっこう値段が張ります。2ピース(お腹に貼る面板と袋が分かれているもの)だと1セット千円ほどしますし、それが持っても2日くらいです。1日2回パンクしてたらもうパウチ代だけで大変なんですよね。自治体に申請する事により補助が出ますが、それまでは結構お金が掛かります。

手術後二日目~

術後2日目くらいになると意識もはっきりしてきて体も大分楽になります。全身麻酔手術って結構後に残ると言うか、自分ではその時ちゃんとしていたつもりでも、後になって考えたら意識がぼんやりしていたりします。人によっては変な事を口走ったり、暴れたりする事もあります。長い入院生活では何度かそういう人を見ました。一番凄かったのは、向かいのベッドの人が手術後の夜に急にむっくり起き上がって、どうやらタクシーに乗って誰かと言い争いをしているようでした。最終的に点滴自分で抜いてベッドから落ちたので(術後なので自力で立てるほどでは無かったのが幸い)、私がナースコールで看護師を呼びました。

やっと口をゆすぐのが許可になりました。でもまだ飲めません。でもゆすぐだけで口の渇きが取れ、楽になります。飲みたい衝動を抑えるのは苦しいですが。3日目にお水は許可になりました。食事はまだ先です。
5日目から流動食が開始になりました。その後1日ごとに3分粥、5分粥、全粥となり、最後は常食になります。常食とは言っても低残査食指定なので、油物や乳製品、繊維質などはほとんど出ません。ただ、食事が始まるのは嬉しいものです。

2日目から体を起こす練習をしましたが、血圧が低く起こしたとたんに貧血で倒れてしまいます。3日目でもまだ駄目で、ベッドから降りるのは4日目でした。それでもまだ歩く事は数歩が限界。5日目にやっと少し歩けるようになり、排尿のカテーテルを抜いてもらったのですが、今度は排尿困難に陥り、毎度導尿してもらう羽目になりました。30代時に尿道狭窄で内視鏡手術をしたのですが、一部尿道が狭くなっている場所があり、そこが悪さをするようです。この排尿障害はこの後も手術の度に私を苦しめるようになります。
この当時は看護師さんに「歩け歩け」と言われるだけで、何の回復プログラムもありませんでしたので、自分でただただ歩きます。最初は十数メートル離れたトイレに行くだけでぐったりです。看護師さんが補助してくれるのも最初の数回だけなので、今考えると結構危険です。

2日目にはポータブルのレントゲンの機械が病室までやってきて、下半身のレントゲンを撮っていきました。その後は一週間置き程度にレントゲンを撮っていきますが、それは1階のレントゲン室まで行かねばなりません。最初のうちは車椅子で連れて行ってもらいましたが、その後は自力で「レントゲン室から呼ばれてるのでibdlifeさん行ってきてー」と看護師さんに言われて歩きで行きます。

毎日朝の回診で傷の消毒とドレーンに溜まった液を抜いてもらいます。術後の経過は比較的順調でした。十日ほどで抜糸になりました。
回診は主治医ではなく当番の外科医が行ないます(主治医が当番の時もあります)。H病院は当時は消化器のT先生が理事長だったので、毎週月曜日には大学病院の教授回診よろしくT理事長が全消化器外科医を引き連れての回診を行います。
私は膝下までむき出しにされ、何人もの先生が見つめる中、主治医のK先生がT理事長に経過と今後の治療方針を説明します。今は無くなりましたけどねこれ。

手術翌日

ほとんど寝られずに翌朝を迎えました。発熱は38度台まで下がり、悪寒も大分引いたので電気毛布は外してもらいました。輸血は結局3パック行ないました。当時の事ですので、後で肝炎などの輸血感染症が心配になりましたが、結局何事も無かったので幸いでした。

翌朝は看護師さんがベッド上で下半身の洗浄をしてくれました。多分手術後なので血液などの付着があるからだと思いますが、若い看護師さんが陰部も丁寧に洗ってくれるので、反応しちゃったら恥ずかしいと思いましたが、私の身体自体がそんな余裕があるはずも無く、全く無反応で気にするだけ無駄でした。
ちなみに1回目も2回目も病棟で一番若い看護学校出たての元ヤン風のかわいい子でしたが、一番若手がやる事になってるんでしょうかね? 確かにあまり楽しい仕事ではないと思います。

少し余裕が出てきたので自分を観察してみます。管がいっぱい繋がっています。点滴、血圧計、心電図、背中への鎮痛剤、お腹の中から汚れた液を抜くためのドレーン、尿道カテーテル。6~7本の管が繋がっています。まだほとんど動けないので確認できませんが、一時人工肛門もあってパウチ(装具)が付いている筈です。お腹中がジンジン痺れている感じなので、どこにそれがあるか分りません。
腹の痛みはそれほどでも無いです。背中の管から常時鎮痛剤が送られてますので、直接的な激痛などは無いです。しかしお腹の中の違和感やお腹全体の鈍痛はあります。
傷口はこの段階ではまだ見ていません。腹帯で巻かれているので、回診に先生が来るのを待たねばなりません。

K先生は9時前に来ました。外来が始まる前に寄ってくれたようです。腹帯を開いて患部を消毒してくれました。この時初めて切った自分のお腹を見ました。胸のすぐ下から陰毛のすぐ上まで二十数センチに渡って縫い傷がありました。
最初の感想は「あ~やってもうた、親から貰った大事な身体に。」でした。手術前からこうなる事は分ってはいた事ですが、いざ傷を見ると結構ショックが大きかったです。
人工肛門(ストマ)は右わき腹にありました。術後用のパウチが付いていて、茶色い水(腸液)がガスと一緒にぐりゅんぐりゅんと渦巻いています。「ガスも出始めているので大丈夫そうですね」とK先生。看護師さんが一旦パウチの中身を抜いてくれました。

家内は10時過ぎにやってきました。夕べはほとんど喋れなかったので、手術時の話を聞きました。やはりあまりに長時間なので不安だったようです。途中で何人も別の先生が入れ替わり立ち代り出入りして、「まだ終わらないの?」などと言っていたそうです。その間家族には何の説明も無かったと。
手術後、K先生がまず無事に手術が成功した事を言い、時間がかかったことについては、「胴が長かったのでなかなか肛門まで小腸が届かず、一時は断念して永久人工肛門まで検討したが、まだ若い(当時40歳)ので何とかすることになり、少しずつ網のように包んでいる血管を切りながら小腸を伸ばしてどうにか繋げたために時間を要した」との事でした。これに関しては(永久人工肛門になった今となっては無駄になったことだけど)一応感謝。
家族は切り取った大腸を見せてもらったそうです。赤黒いサンショウウオみたいに見えたそうです。何度か手術をしてますが、あれなんで本人は見れないんでしょうかね?

とにかく喉が渇くのですが、まだ水を口に出来ません。ゆすぐのもまだOKが出ていません。それと酸素マスクをつけているのが苦しくて、勝手に外してしまい何度も看護師さんに怒られてました。午後になって熱も大分下がり身体は楽になってきましたが、まだ体を起こす事もできません。
最近は腸閉塞防止のため手術翌日には患者を歩かせるのですが、さすがにまだ血圧が上がってこない私は無理です。ベッドの頭側を電動で持ち上げられるので、体を慣らしていこうと何度か行ないましたが、ちょっと頭を上げたところで酷い立ち眩みのようになり「無理無理!」となります。

まだまだ時間が必要です。この日は30分毎に目が覚めましたが、少し寝る事が出来ました。

手術直後

手術後、家内と少し話をしましたが、私の息が苦しくあまり話せないのと、もう遅い時間なので一旦帰りました。義父たちは先ほど帰ったそうです。何しろ11時間以上どんな思いで手術室の前のソファ(H病院は家族待合室のような個室は無く、手術室に廊下で繋がるエレベーター前のソファに、検査患者たちと並んで座っているしかないのです)にいたのだろうと思うと家内が不憫です。

回復室の私はと言うと非常に慌しい中にいました。何しろ熱が40度、血圧は上が50しかないのです。看護師さんがそう先生に言っているので判ります。
何か死ぬかもしれないとかすかに思いました。血圧50なんて大変な事だと素人の私でも判ります。
「ibdlifeさーん、血が足りないので輸血しますね」事前に輸血の承諾書に署名してありますので、輸血が始まりました。点滴棒に凍った赤い血液パックがぶら下げられます。K先生長時間の手術直後で疲れているだろうと思いますが、私も大変なのでまだまだ帰れなさそうです。看護師さんが15分おきくらいに体温と血圧を測っています。
私は寒くてガタガタ震えていました。歯がガチガチ鳴るレベルです。寒いと言って電気毛布を入れてもらいましたが、全く暖かさを感じません。仰向けになっているのがつらかったので、傍に来たK先生に「横を向いていいですか?」と訊きました。「あーいいですよ」と言う事でベッドの手すりに捕まって横向きに丸まって寝ました。何しろ寒いので少しでも丸くなりたいのですが、横向いたら切ったお腹が開いちゃうんじゃないかとうっすら思ったりして気が気じゃありませんでした。

どうも呼吸が浅いようで、体に繋がってる機械が息の間隔が開く度にピーピー鳴ってました。もっとトライボールやっておけば良かったと思いましたが今更どうしようもありません。
傷口の傷みは鎮痛剤が効いているので激痛と言うほどではありませんが、重い鈍痛が腹全体にありました。とにかく辛いので少しでも寝ようと思いました。寝ればその分だけ楽になるだろうと思いました。が、一呼吸ごとに目が覚めてしまう感じで、一向に時間が経ちません。少し寝たと思ったはずなのに、時計を見たら5分しか経ってません。辛くて長い長い夜でした。

大腸全摘出手術(第一期手術)

準備を整えてH病院に入院。手術前の患者は短時間にたくさんの検査をこなさないといけないので結構忙しいです。尿検査、血液検査、CT、レントゲン、肺活量、諸々。

手術前には「トライボール」という器具を買わされて、肺機能を高める練習をさせられます。これはピストンの中に3つのボールが入っていて、息を吸ってボールを上に上げ、3秒続けます。また器具を逆さにし、息を吐いて同様に。これを何回か繰り返し、手術前に肺機能を高めておく事で、手術後の呼吸トラブルを防げるとの事です。

主治医のO先生は外科医では無いので、執刀は消化器外科のK先生が行う事が決まりました。私よりひとつ年上の(実は最近知りました)、ちょっと体格のいい陽気な先生です。
手術前日に、ニフレックを使って腸内洗浄をします。その後は完全絶食です。午後には家内を交えて手術に関する説明がK先生から行なわれました。
腹腔鏡手術も選択できたのですが、K先生と話した結果、開腹手術を選択しました。開腹の方が医師としても手術がやりやすく、結果手術のクオリティが維持しやすいとの事でしたので。手術時間は一応5~6時間程度との事でしたが、これはやってみないと判らないそうです。
家内は非常に心配性なので精神面が心配なのですが、私は手術室に入ってしまうのでどうにも出来ません。その点は不安です。能天気な私は自分の手術に関しては何の心配もしていませんでした。

手術・入院費用は難病医療券が適用されますが、保険外の自費で支払わねばならないものも結構あります。事前に病院売店で買わされたものは、先ほど書いたトライボールの他に、腹帯を2つ、大判の紙おむつを二つ、そして血栓防止用のタイツも買わされました。1万円以上かかったと思います。その他に入院中の寝巻きリースも保険外で実費です。持込のパジャマを使ってもいいのですが、手術後から抜糸までは出血で汚れる事が予想されるために、ほぼ強制的に寝巻きリース契約をさせられます。

手術はお昼の12時開始に決まりました。前日ニフレック中から点滴針が入ってブドウ糖液の点滴開始です。午後からはやることが無いので退屈です。トライボールは結構サボってました。まだ40歳ですし、肺活量には自信があったのです。
手術前は腹を冷やさないよう気をつけました。もし発熱でもしたら手術自体が延期になってしまいます。看護師さんが「眠れないようなら眠剤を出します」と言ってくれましたが、全く緊張は無かったので断りました。睡眠不足は翌日の手術に体力が必要なので、無理せず薬を飲んで眠れと言う事です。

翌手術当日です。10時頃に家内が不安そうな顔で来ました。「大丈夫だよ」と元気そうに振舞いますが(実際元気で緊張もしてません)、私がそれを言ったところで何の効果もありません。剃毛をするとばかり思ってましたが、なんとしないそうです。技術が発達して長い毛を多少カットするだけで剃毛は必要無くなったそうです。と言ってもH病院で私が剃毛廃止の第1号だそうです(笑。色々H病院のレコードを持ってる私です。

さすがに手術時刻が近づくと緊張してきました。緊張すると小便が近くなるので困ります。今回はストレッチャーに乗せられていく事になっていたので、早めに安定剤を打ってもらうことにしました。安定剤を打つと緊張が解けて気持ちが楽になります。軽く眠くなりますが、まだまだ我慢。どうせすぐに麻酔でコロッと寝てしまいます。

病室は5階、手術室がある2階まではエレベーターにストレッチャーごと乗っていきました。手術室入口で病棟の看護師さんとは暫しのお別れ。そこからは手術担当の看護師さんに引き継がれます。
まず手術台に乗せられます。安定剤で多少ふらついてますが、まだ自力で動けますから、手術台横にぴったり付けたストレッチャーから自分で移動します。

手術台上で、素っ裸にひん剥かれて血圧計などを付けてもらいます。次は脊椎麻酔(硬膜外麻酔だっけ?)です。横向きになって海老のように丸まって脊椎の骨の間から針を入れます。手術後はしばらくこの背中に入ったチューブから鎮痛剤を入れて痛みを止めます。
背中にチューブが入ったら仰向けに直され、マスクを付けます。いよいよ始まります。麻酔医が「大きく深呼吸をして下さい」「ひとーつ」「ふたーつ」みっつの前にもう私は落ちてたと思います。

・・・・・

「ibdlifeさーん、ibdlifeーん!」誰かが呼んでます。ほっぺたをピチャピチャ叩かれてます。はっと気づき「はい」と答えます。うわーなんだか体中全部痛い!!
「ibdlifeさーん、終わりましたからねー!今から移動しますよー!」執刀医のK先生が声を掛けているのがわかりました。
体は既にストレッチャーに乗せられているようです。時間感覚が全然ありません。ガラガラと手術室内から移動しているようですが、麻酔から覚めきってないので現実感がありません。ただただなんともいえない具合の悪さと胴体全域に鈍痛がずーんと来て不快です。
手術室のドアを出ると、家内がほっとした顔で覗き込んでいました。どんなにか心細かったろうと思うと申し訳ない気持ちで一杯です。家内の両親の顔も見えます。わざわざ来てくれたようです。
そのままガラガラと運ばれエレベーターに乗せられ、5階病棟のナースステーション横の「回復室」と言う部屋に入れられました。ICUに入れるほどではないが、看視が必要な患者を入れておく部屋です。
しばらく血圧や体温を計られていると家内も入ってきました。「頑張った頑張った」と言ってくれました。頑張ったのはお医者さんです。僕は寝てただけなので。
「今何時?」と訊くと「11時半」と答えが返ってきました。なんと11時間半の大手術だったのです。

そして手術へ

プレドニン投与だけでは長期の緩解を得る事が出来なくなり、G-CAP(白血球除去療法)も試しましたが思うような結果が出ませんでした。O先生ともう一度G-CAPをやるかどうするかを話し合いましたが、その時にテレビで観た「大腸全摘出手術」の事を訊いてみました。(L-CAPはまだ開発中で間に合いませんでした)
テレビでは最近保険適用が始まった最新の治療法で、根本的に潰瘍性大腸炎(UC)を直す事が出来(患部である大腸全体を取り除くので当然)、予後は皆さん良好で普通の排便を行う事が出来(夜間多少の漏れはあるらしい)、プレドニンなど危険な薬をこれ以上投与する必要も無くなり、ほぼ完治と呼べるほどの夢の治療法のように紹介していました。患者会でもある程度の情報を得て、満を持しての希望でした。精神的にもかなり追い込まれていたので、いちるの望みにすがる思いも大きかったのです。

O先生もその手術の事は良くご存知で、私なら難治として適用になること、H病院でも既に必要機材を揃えているので手術が可能な事、希望すれば都内の有名病院への紹介状を書いてくれる事、などを話し、「手術という事で後戻りできなくなるが、希望するのであればやってみた方がいい」との事でした。止められるかと思っていましたが、結構乗り気で驚きました。

当時行われていたのが、まず大腸全摘出手術と人口直腸ともいえるJパウチの造設、一時人工肛門の造設手術を行い、二ヶ月ほど入院看護を受けながら体を慣らし、人工肛門を閉じて肛門から排便するようにします。
ケースによっては最初の手術で落ち着いたら一度人工肛門のまま退院し、便の状態が良くなったら再入院して二度目の手術を行なう方法、全部を2回では無く3回の手術に分ける方法などがあり、病院の方針や術後状態によって色々あるようです。
私は会社から長期の休みを取る都合もあり2ヶ月入院で2度手術をする手法を希望していました。(テレビもそのパターンだったと記憶しています)

数度O先生と話し合い、私が希望する方法で手術をすることにしました。病院は転院せずそのままH病院で行う事にしました。UC治療で有名な病院へ転院する事も考えましたが、遠い病院になってしまうと週に数度来なければならない家内に大きな負担がかかること、もちろん交通費含めて家計にも大きく響きます。ちなみにH病院では4例目との事でした。初めての手術だと言うなら躊躇しましたが、4例目なら少し慣れて大きな問題も起こり難いだろうと言う読みもありました。
とんとん拍子に話が決まり、2002年の5月に入院、7月に退院予定というスケジュールで動き始めました。日韓ワールドカップは病院内で観る事になります。

患者会に入ってみた

G-CAPで入院していた頃、H病院は割りとフランクな雰囲気で、看護師さんが色々相談に乗ってくれたのですが、病気の様々な情報を得るのに現在ほど豊富な情報がネット上にあるわけでは無く、書籍に関しても情報の鮮度を考えるとちょっと微妙な感じだと話していたら、患者会に入ることを勧められました。
看護師長さんが、申込用紙など資料を手配してくれて、退院後に早速申し込んで入会しました。多摩地区のIBD患者会で、当時最も活動的だったのではないかと思います。(今ではここが東京全域の患者会になっているようです)

2ヶ月に1回程度の開催で、毎回2~30人ほどが集まります。内容はテーマを決めてのディスカッションと雑談ですが、話題は食事療法や治療法、民間療法やよく聞く健康食品の話題でした。
ここで初めて私の食事制限が無いというのが異端な治療法だと言う事を知りました。プレドニン50mg服用しながらカツ丼やカレーを食べてると言うと一様に驚かれます。
当時「広島クリニック」が話題になり始めた時期で、その是非や効果のほどは皆さん興味があるようでしたが、地理的に遠いのがネックで(でも確か2~3人やってる人がいたと思う)金銭的負担を考えるとさすがに誰もが受けられる治療ではないと思いました。

健康食品ではヤクルトミルミル(一時期ビフィーネMに名称が変わってましたが戻ったようです)が効くとか、ビール酵母がいいとか、私もミルミルは結構飲みましたし、患者会で貰ったパンフレットからビール酵母も買ってみました。あまり目に見える効果はなかったかな。
「お腹に優しい」とかのレトルト食品のサンプルなども貰って食べてみましたが、病院食とそう変わらないのでおいしいとは言い難かったです。

既に40歳近かった私は、患者会内でも年配の方でした。患者の家族(両親など)の入会者も割りと多くて、ディスカッションや情報交換でも熱心にメモを取っていました。

皆さん自分の病気を治すことに執着が凄く、割とのんびりどうにかなるさの私は異端です。どなたも都心の有名な病院の有名な先生に通っている方がほとんどで、私のような郊外の無名病院の患者はいませんでした。それらの有名な先生はセミナーなども開催していて、その情報なども患者会で得る事ができます。
有名病院で治療されてる方は、無名病院での治療をちょっと下に見ている方が多く、また同じ主治医の人たちがグループを作りがちなので少し悲しい思いをすることもありました。
まあ「そんな治療法は駄目だ」と言われても、結局結果があまり良くなかったので、今となってはまあその通りなんだろうなと思いますけどね(苦笑。
完治したと豪語してる人もいました。潰瘍性大腸炎(UC)の「完治」ってありえることなんでしょうか? 医学的には長い緩解期じゃないかと思うのですが、一生再燃しないのであればそれは幸せな事ですね。もちろんそんな方は患者会内でのヒーローです。皆がその人の話を聞きたがります。どんなものを食べて、どんな治療を行い、どんなサプリメントを飲んだか、どんな生活法なのか。数ヶ月で再燃を繰り返す私にとっては夢のような事です。しかし全く同じ事をしても、全員が同じ結果にはならないのがこの病気の難しいところです。

しばらく入ってましたが、会全体の雰囲気に馴染めず、また私が主目的としていた大腸全摘出の効果や術後の情報も得られたので、退会してしまいました。
当時始まったばかりの大腸全摘出された方も数人居られましたが、皆さん経過も良いとの事で、私も期待を持って臨む事が出来ました。経験者に直接尋ねるなんて患者会にでも入らないと無理ですしね。

患者会の是非ですが、向く人は向くし向かない人は向かないと思います。社交的かどうかはあまり関係なく、その会の雰囲気が重要だと感じます。でも、生の鮮度の高い情報が得られる事は確かです。有名医師の講演を聴きに行くのも貴重な経験だと考えます。効くと噂の健康食品のサンプルも貰えたりしますし、バーベキューなどの食事会もあります。
長く続けるかは別問題として、一度入ってみるのもいいんじゃないかと思います。

白血球除去

治療8年目、21世紀に入ります。プレドニンも大分効果が薄くなってきました。50mg投与すれば出血は止まりますが、緩解期間だ徐々に短くなってきました。すぐに再燃してしまいます。

ある日、診察に行くとO先生から「この病院でも導入したので使ってみませんか」と勧められたのが、当時最新の治療法である白血球除去です。H病院は理事長が消化器医のため、そこらへんの大学病院よりこの手の機材導入が早いです。当時多摩地区では最初に入ったと思います。

私の行なった治療は、今で言うG-CAP(アダカラム)という奴です。白血球の顆粒球を透析で除去するという治療で、完全看護の中一週間ごとに1回、それを5回繰り返してワンクール終了です。(当時の標準的な方法)
最新治療法でもあり、副作用も考えられるため、体調を管理しながら行なわねばなりませんでした。もちろん入院治療です。(今では通院でも出来るようです)
一ヶ月の入院は仕事的にきついのですが、大病という事もあって会社は了承してくれました。

私にとって、初めての潰瘍性大腸炎での入院です。他の病院なら何度も入院してるケースでしょうけど、O先生の私に対する治療はかなり特殊だったと思います。私の仕事面を大きく考慮して下さったと思うので感謝していますが、逆に他の病院でやっているような入院での絶食治療や食事制限をしていればもう少し私の大腸は長持ちしたかな?という気持ちもちらっと今でも頭を掠めます。

H病院にとって初めてのG-CAP運用が私でした。機械もまっさらでピカピカです。その機材は透析室の一角に小部屋を作って置かれていました。
透析室に入る前に、「透析中の人をじろじろ見ないこと」「彼らを“かわいそう”などと軽々しく透析室内で決して言わない事」等注意を受けました。
技師さんもテストは何度もしたでしょうが、初めての運用が私なので慣れてないのは確かでしょう。通常は両手を使って左の静脈から抜いて右の静脈に返すらしいのですが、私はとにかく血管が細くて採血泣かせです。そしてG-CAPに使う針はかなり太くて、それを刺す血管もある程度の太さが必要です。この時も左手で有効な血管が見つからず、結局左は足首の静脈から取るというウルトラCで行う事になりました。

透析は約1時間で終了しますが、針が太いためその間じっと寝ていなければならない事が苦痛です。5分に1回ほど技師さんや看護師さんが見に来て機械がちゃんと動いているか確認します。
トイレ行きたくなったらどうしよう・・・と思ったら、何度目かで本当に我慢できなくなり、一旦針を抜いてトイレに行かせて貰いましたが、次回から紙オムツ着用になってしまいました(笑。
終了すると針を抜きますが、採血針と違って極太なのでなかなか血が止まりません。数分アルコール綿で押さえて止まったと思って立ち上がって歩き出すと、ボタボタと血が落ちてきて慌てて看護師さんが止血という事も数度ありました。

終了後は1日点滴です。病院は何かと点滴しますが、あれは保険点数を稼ぐだけの事が多い気がします。結局ブドウ糖水500ml入れても何の効果があるんだか判りません。もしかしてベッドに患者を縛り付けておくための手なのでしょうか?
副作用として、私は強い頭痛に悩まされました。終了後しばらくすると頭痛が始まり、翌日には消えています。
G-CAPが無い残りの6日間は暇です。一応身体自体は元気なので非常に退屈です。当時、UCが悪化して外で仕事ができなくなった場合の転職を考えて資格の勉強をしていましたが、治療の合間に外出許可を貰って試験を受けに行きました。

入院中、同室のSさんと仲良くなりました。Sさんは隣町のお米屋さんのご主人です。当時60才前後でしょうか?胃がんで胃の大部分を切除していましたが、検査入院との事で割と元気そうに見えました。物静かなのに男気のある方で、私の好きな「大人」でした。奥さんと息子さんが入れ替わり毎日見舞いに来て、私もフルーツなど一杯いただきました。
Sさんの方が一週間早く退院していきました。「後で米送るよ」と言ってました。私も退院して数日、どうしたかなと思っていると、奥さんから私の自宅に電話が。送ってくれる米の件かと思って「その節はお世話になりました」と受けましたが、「今朝主人が旅立ちました」との事。私の退院と入れ替わりに緊急入院したそうです。私は絶句してしまいました。「絶句」の意味を初めて現実的に理解した日でした。今ではもう入院患者のエキスパートと自負していますが、この日以上に悲しかった事はありません。

G-CAPが効いたか効かなかったかというと、なかなか判断が難しいです。何故かと言うと一緒にプレドニンも飲んでいましたので、どちらが作用して緩解に至ったか判りません。ただ、その後の緩解期間が3~4ヶ月しかなかった事を考えると、あまり効果が無かったとも言えます。
この後、L-CAPという別の白血球除去方も出てきましたが、残念ながら受けた事はありません。私は退院後にテレビの潰瘍性大腸炎特集で見た「大腸全摘出手術」に心惹かれていきます。

緩解期の排便

プレドニンをのみ始めると下血、腸内の出血は大抵止まって緩解期に入ります。普通の人は、排便も通常に戻るとお思いでしょうが、ところがどっこいそうは行きません。
いつも通り頑固な便秘、酷い時は10日以上出なかったこともあります。そして突発的な便意と下痢。この繰り返しです。
思うに潰瘍性大腸炎(UC)患者の大部分は、過敏性腸症候群も発症しているケースが多いと思います。私自身もそうでした。何しろトイレにこもって30分以上うんうん唸っても何も出ません。だからといって外に出ると突然に便意、トイレを探しますがなかなか見つかりません。やっとの思いでトイレに駆け込むと出血は無いものの泥状便が大量に出てきます。
こんな事を毎回繰り返していますから、自然といつでもトイレを探しています。トイレに駆け込めないような状況、行列に並んでいる最中や満員電車では非常に不安です。そうこうしている内に「トイレに駆け込めないような状況」になると必ず便意が襲ってくるようになります。しかもどんどん我慢できる時間が短くなってきます。最終的に私は5分も我慢できなくなりました。
他の何か気が散るような事が起これば凌げたりします。不思議と車の運転中は大丈夫ですが、渋滞に嵌るとやはり来ます。いつでもトイレのことを考えるようになってしまいます。既にノイローゼですね。

大腸内視鏡検査で見るとよく判りますが、緩解と再燃増悪を繰り返してるうちに大腸粘膜が再生不可能になってきます。そのため大腸が便をうまく運べなくなってしまいます。便が動けないために詰まってしまい、最終的に下痢で押し出すというUCの悪循環に精神的なものも加わります。「今便意が来たら困るな、どうしよう」と思うと、必ず我慢できないような便意が来てしまいます。
思い出したくないような出来事も経験しましたので、なおさら精神的に病んで来ます。鬱になる人が多いのも頷けます。私は割と楽天家だと思ってましたが、この時期はやはり鬱だったと思います。

最終的に私はリハビリパンツ(いわゆる紙オムツ)を着用しました。大の大人がこれを付けるのは非常に抵抗がありますし、屈辱的だと感じていましたので、なかなか出来ませんでした。そのためにずいぶんと苦しい思いもしたのですが、内科治療期の最後の2年ほど、覚悟を決めてエイヤっとはいてみたら、実に気が楽になりました。いざとなったら粗相ができるのですから、「今便意が来たら困るな、どうしよう」という心理になりにくくなります。
もし躊躇している方がいたら、精神を病む前にリハビリパンツを使う事をお勧めします。特に今は薄手で外からは気づかれないような製品が出てますので、[社員旅行で風呂に入る」とかでなければ、誰にも気づかれずに使用できるでしょう。私ももっと早くに使っていれば、いくつかの思い出したくないような出来事は防げたと思っています。

プレドニン(ステロイド)開始

潰瘍性大腸炎(UC)治療が始まって数年、サラゾピリン、ペンタサだけでは効果が薄くなりました。いよいよステロイドを投与する事になります。UC治療といえばプレドニン、定番薬の登場です。

基本的にはプレドニンとペンタサ、それに免疫抑制剤や整腸剤と組み合わせて投与されます。非常に危険な薬なので、今ではプレドニン大量投与の場合は入院とセットではないかと思われますが、私の場合O医師が私の休めない仕事を考慮してくれたのか、普通に通院しながらの治療を行なっていました。
今でも投与法はほぼ変わらないと思いますが、最初に50mg/1日をガツンと投与します。その後数ヶ月間かけて徐々に減らして最終的に0にします。効果は劇的に効きます。私の場合、どんなに酷い状態でも必ず数日で出血は止まりました。最初のプレドニン投与の時は、5ヶ月ほど掛けて減らし、最終的にはプレドニンを打ち切りペンタサと整腸剤だけで緩解を保たせます。緩解期も1年近くあったと思います。

プレドニンはその強力な症状改善の代償に、非常に危険な副作用を持ちます。私の場合、いわゆる「鳥目」が酷く、夜やちょっと暗い部屋だと何も見えなくなります。特に50mg投与中に夜間運転した時は、突然視野狭窄が起こり横が全く見えなくなり、えらく恐ろしい思いをしました。普通人間の目は両目で140~160度くらい視野角があるものですが、それがほぼ真正面しか見えず、その両側が虹色に光ってるような症状でした。プレドニン投与中の運転はお気をつけください。また。抜け毛が酷く、髪を洗ってブラシでとかすとずるっと抜けてくるようになりました。一時は本気で禿を心配したほどです。
関節痛も結構ありました。和室に布団を敷いて寝ていたので、起き上がるのが一苦労です。まず横を向いてゆっくり立ち上がらないと膝が痛くて力が入りません。夜間トイレに起きて転んでしまった事も数度あります。当時30代だったのに80歳の年寄りになったようでとても不安でした。
ムーンフェイスと言われる、顔がむくんで丸くなる現象は、割と誰でも顕著に出るようです。たいてい知人に「太った?」といわれますが、食欲も増進しますので本当に太る事も多いです。

その他、私には出ませんでしたが、人によっては精神障害、鬱、睡眠障害が出ることもあります。O先生はもし精神的に何かあったらすぐに来るようにと言っていましたが、幸い大きな精神的症状は出ませんでした。
ただUC自体が患者に精神的苦痛を与える病気ですので、鬱になりやすい、また軽い鬱であるケースも多いです。私も内科治療中は今思えばずっと軽い鬱であったと思います。

プレドニン投与の副産物もありました。私は十代の頃から結構なアレルギー体質で、まだそう呼ばれない頃からの「花粉症」持ちですし、尋常性乾癬という皮膚炎も常時どこかに現れています。
それがプレドニン投与中は全く症状が出ません。いつもは春先は辛い季節なのですが、プレドニン投与中は花粉症が出ないので非常に楽が出来ました。プレドニン投与が無くなった今では恋しく思う事もあります。これも依存症なのでしょうか。

繰り返す再燃

最初サラゾピリンで緩解しましたが、1年経たずに再燃してしまいました。
再び大腸内視鏡検査を受けて、サラゾピリンの量を増やされます。多少良くなります。で、また数ヵ月後に再燃。これの繰り返しです。サラゾピリンだけでは無く、整腸剤や漢方薬と組み合わせて処方される事もありました。

何度か再燃を繰り返した後、新しい薬が承認されたとかで、メインの治療薬がペンタサに替わりました。これはサラゾピリンから有効成分を抽出したとかで、副作用が少ないらしいです。元々サラゾピリンはリウマチ薬として開発されたらしいですね。

ペンタサは基本的にサラゾピリンと大きく変わらない薬なので、効果も同様です。使っているうちに体が薬に慣れてきたのか、大きな改善が見られなくなってきました。服用し続けても緩解に至らないうちに再燃増悪になってしまい、その間隔も6ヶ月未満になってきました。途中から免疫抑制剤なども併用するようになって来たのですが、あまり効果は無く更なる強い薬を必要としてきました。

※免疫抑制剤はイムランだと記憶していたのですが、イムランがUCに認可されたのは2006年なので、保険適用にはならないはず。しかしイムランを使った記憶はあるのです。この辺は謎。

内科治療中の食事

当時から、潰瘍性大腸炎の治療の一環として食事療法はよく言われていました。あれが良い、これは良くないなど、後で入る事になる患者会でも情報交換の中心はよく効く民間療法と食事の内容でした。
特に増悪中は中心静脈栄養(IVH)とエレンタールでしのぎながら絶食するという事が当時から行なわれていました。

しかし、私は全くそのような事をしたことが無いのです。当時の内科治療での主治医O先生は食事制限を行なわない方針で、むしろ栄養の偏りや栄養失調を心配されていて、「何でも普通に食べて結構です」と言われていました。
私や料理を作る家内にとっては、非常にありがたい治療方針で、食べるものについて悩む必要はありませんでした。ですので再燃増悪中下血があっても入院治療はせず、普段通りトンカツやカレー、乳製品やラーメンも食べていました。おそらく今治療中のUC患者の方々にとっては驚愕する食事内容だったと思います。これは10年に渡る内科治療を通して変わることがありませんでした。

最近H病院に入院して、若いUC患者と同室になりましたが、今はIBD専門医がいて増悪した患者には絶食治療をちゃんと行なっていました。何も制限が無かった私からは、何日も食事が出来ないのは不憫だと傍で見ておりましたが、考えようによってはこの食生活が災いして早期に外科治療に踏み切らざるを得なかったという可能性もありますので、どちらが良いかは素人の私には判断できませんが、精神衛生上は食べたいものを食べられた事は幸せだったと思っています。

ちなみに油物や乳製品、繊維質、アルコールや炭酸飲料などUC患者に良くないとされているものは数多くあります。正直毎日素うどんをすすってないといけない様な食生活になります。私は全て普通にそれらを食べていました。今治療中の方は反面教師として捉えて下さい。今のH病院が絶食治療を行っているのがその理由です。

サラゾピリンの服用

潰瘍性大腸炎(UC)と判って最初の治療が始まりました。薬はサラゾピリンと整腸剤の服用です。オレンジ色の大型の錠剤、サラゾピリンは当時UC治療の主要な薬でしたが、とにかく大きくて飲みにくかったです。当時は丸型の錠剤でしたが、最近は長円形に変わっているようですね。
これを長期に服用すると、薬剤の色の影響でしょうか、肌がだんだん黄ばんできます。爪も黄色くなってきます。白目も黄ばんできます。尿もまっ黄色です。びっくりしたのは精液も黄色くなります。これのために家内の健康が心配で夜の生活に影響が出ました。実際は影響は無いのですが、当時はインターネットも無いのでそんな情報も入手できず、主治医に聞くのも恥ずかしいので控えるしかありませんでした。

しかし、サラゾピリンは発病当初はよく効きました。数週間の服用で下血は治まり緩解状態に入りました。

※サラゾピリンの影響:男性が長期に服用した場合、精液が減少するという副作用はあるそうです。しかしパートナーへの影響は心配しなくてもいいとのこと。

※緩解(寛解とも書く):この病気になって初めてこの言葉を知りました。症状が治まる状態が継続する事ですが、医師との会話、患者同士の会話でよく出てきます。逆に症状が悪くなる事を「再燃」や「増悪(ぞうあく)」と言ってました。

難病医療費助成手続きをする

確定診断を受けた後は結構忙しいです。潰瘍性大腸炎(UC)は国で定めた指定難病ですので、医療費の助成を受ける事ができます。当時はこの対象は56疾病でした。そのそうそうたる原因不明の難病に潰瘍性大腸炎も名を連ねているのです。ちょっと頭がくらくらしてきます。
医療費助成を受ければ、当時(平成5年頃)は通院で月千円ほど入院は月5千円くらいだったと思いますが、その額以上は自治体(都道府県)が負担してくれます。(実際は都道府県と国が半分ずつですが)
その承認をするのは自治体、私の場合で言えば東京都なので、早速書類を取り寄せ申請しなければなりません。うろ覚えですが、私の場合H病院のカウンセラーが必要書類や手続きのやり方を全てレクチャしてくれたと思います。新規の申請はいつでも出来ますが、承認が降りて医療券が発行されるまで2ヶ月ほど掛かります。
また、毎年夏ごろに更新手続きをしなければならず、大量の申請書類と格闘しなければなりません。病院に書いてもらわねばならない「個人調査票(決まった書式の診断書みたいなもの)」も私の病院の場合6千円掛かりますので(公立病院だともっと安いらしい)、この更新手続きはもっと簡単にして欲しいと二十数年間思い続けていますが一向に変わりません。

当時は指定病院(H病院もそうでした)で受診し、書類が整っていればほぼ100%申請は通るようでした。私も問題無く承認され、晴れて医療券を手にすることが出来ました。これで難病患者の仲間入りです。ちっとも嬉しく無いですが。