手術翌日の↑と↓

手術翌朝は一気に楽になります。朝8時頃、外来が始まる前にKb先生と副担当のS先生が様子を見に来ました。まず鼻チューブが取れ、酸素マスクも取れ、血栓防止の足裏を圧迫する機械も取れ、飲水も許可になりました。とにかく鼻チューブは苦しかったので幸いでした。お水は普通最初は口をゆすぐ程度が許可になると思っていましたが、いきなり飲んでもいいとなりました。腸管の途中を切ったり縫ったりしていないためだと思います。

早速看護師さんにお水をコップに入れてきてもらい、まず口をゆすぎ、次に飲んでみました。口の中は乾燥してガビガビです。こんなに乾いてしまったのは初めての気がします。特に歯の裏に唾液がこびりついて層になっていました。お水を口に含んでもなかなか取れませんし、ベタベタしてきて気持ち悪いです。多分口も相当に臭くなっているでしょう。

回診で初めてお腹の縫った部分を見ましたが、縫い後もきれいになってるようです。以前の手術のように糸で結んであるのでは無く、金属のホチキスの針みたいなもの(10本くらい)で止まっていました。イメージとしてはフランケンシュタインの頭の縫い目のようです。ただ「おへそ」がどこに行ったか行方不明。本題の人口肛門(ストマ)はまだ手術用パウチが付いているので、様子は判りません。出来が良いといいのですが。
この術後1日目で大分楽になりました。まだ残っているのは点滴を除けば、心電図のセンサー(もう1日付けておくとの事)、尿のカテーテルとバッグ、お腹に刺さったドレーン、背中に刺さってる鎮痛剤のパイプです。これらが日に日に減っていく予定です。

しかし良い事ばかりではありません。午後にリハビリのI先生が来ました。現在は手術翌日から歩かせるのが標準的です。寝たままだと腸閉塞になりやすいので注意が必要です。
「じゃあまず体を起こしてみようか」とベッドを電動で起こします。45度くらいまでは平気でしたが、それ以上に起こすと立ち眩みのような貧血が襲ってきます。この時点で血圧は上が70程度しかありません。輸血したとはいえ、まだ血が足りないのは明らかです。
その後、自分で体を起こしてみます。この時に腹筋を使って体を起こしてはいけません。腹膜の縫った部分が開いてしまいます。まず寝たまま体を横にして、ベッドの手すりを掴んで腕の筋肉を使って徐々に起こしていきます。とりあえず起き上がれましたが頭がくらくらします。次に踵を上げて足踏みのようなことを30回ほどやらされます。ふくらはぎの筋肉を使って血液を押し出し、血圧を上げるわけです。
次にI先生に「立ってみようか」と言われ、何とか立ち上がってみましたが、その途端に目の前が真っ白くなるような立ち眩み。血圧も60台まで下がりました。
このまま歩くのは危険なので、今日はここまでです。ベッドの上でふくらはぎの運動を行なって血圧を回復するよう言われました。翌日は歩きたいものです。腸閉塞は緊急手術になるので恐ろしいです。こんな状況でまた手術なんてぞっとします。

そして、この日の夜に急に熱が出始めました。珍しく術後熱が出ないと思っていたのに・・・。計ったら39度以上あります。その割りに意外と辛くないタイプの発熱です。おまけに咳が出始めました。痰が絡むような咳です。腹に響くので非常に辛いです。
体を横にするとこの咳が出始めるのです。体を起こすと比較的楽でした。なので、一晩中ベッドの手すりにもたれながら眠れない一夜を過ごしました。翌日はもう少し楽に眠れると思ったのにとんだ誤算です。
しかしこの咳があとでとんでもない事態を引き起こします。

こんなにしんどいと思ってなかった(手術後)

手術を決めるときに自分の感覚としたら、前回行なった一時人口肛門造設の時くらいを予想していたんですと。いやー甘かった甘かった。
出血が多かったために、手術後病室に戻ってから輸血が始まりました。さすがに1パックだけでしたが(2002年の時は3パック)、輸血は何かと後々の感染症が心配です。

私は鼻チューブが苦手です。2002年の時はおそらく胃の変なところに刺激を与えていたのでしょう、ずっと吐きっ放しでした。後から少し位置を動かしてもらったら楽になりました。今回も鼻チューブに泣かされました。やっぱりへんなところに当たって吐きそうになるのです。看護師さんに頼んで多少抜いてみたり奥に入れてみたり、楽になるポイントを探しましたが完全に吐き気が止まる位置は見つかりませんでした。時々チューブから胃液を抜いてもらって凌ぎます。

手術自体の痛みは背中から入れてる鎮痛剤がよく効いているのか、それほどたいしたことはありません。しかしお腹の中の違和感とお腹全体に広がる鈍痛はこれまで経験の無いものでした。
少しでも楽になりたいので、体を横に向けたいのですが、そうするとお腹の中がじわーっと移動して寄って来る感触があります。そして横を向くと吐きそうになるためにちっとも楽になりません。2002年の大腸全摘出時の手術後は横を向いて丸まって寝る事で大分楽になれたのですが、今回はその手が全く使えませんでした。

いつも手術後に私は「少しでも眠ればその後はちょっぴりでも楽になっているはず」と願いながら、無理にでもできるだけ眠るようにしているのですが、今回は一呼吸ごとに起きてしまいます。おまけに数分に一回、血栓防止の機械がウィーンと音を立てて足裏を押してきます(これのおかげで圧迫が苦しい白タイツが不必要になりました)ので、そちらでも起こされます。同室の人たちはさぞ迷惑だったでしょう。
そんなことで、夜は長く長く続きます。朝の回診が来れば色々状況が変わるのですが、ちょっと寝たと思って時計を見ると5分も経ってなかったりします。そんな事を何十回も繰り返しながら、目を開けるとまだ真夜中でガッカリしていました。
鼻チューブのために口で息をしていましたが、どんどん口が渇いてきます。唾が歯の裏で固まってくるのです。これは不快なのですが、今夜は水を飲むどころか口をゆすぐ事もできませんので我慢します。

手術直後とあって夜勤の看護師さんも30分おきくらいに様子を見に来ます。検温も2時間置きにやりますが、体温は37度台、いつもは高熱を出すのに今回はそれほど出てないのは幸いです。血圧は足に巻いた機械で定期的に自動測定してますが、60~70くらいしかありません。
いやーしんどい!もっと軽く考えていた自分が浅はかでした。しんどいしんどい一夜でした。

これが最後の手術になるはず(手術当日)

だいたいですね、4回目の全身麻酔で開腹手術ってのがおかしいんです。命に関わる病気で手術している人だって、一生の間に多くても2回、せいぜい3回ですよ。4回なんてそうそういませんよ。しかも同じところをチョコチョコ開けちゃ直ししてるんですから。もうさすがにこれで打ち止めでしょう。

今回の手術の目的は4つあります。
1)2孔人口肛門(ストマ)を1孔の永久ストマに作り直し。
2)肛門の閉鎖。Jパウチの削除。
3)腹壁(小腸)ヘルニアの修復
4)以前の手術痕のケロイドの除去
1と2は永久ストマを造設するためのもの。3は事前のCTスキャンで判明したので治さねばなりません。4はオマケみたいなものですが、引きつりもあって醜い手術痕だったのでKb先生が「ついでにこれも治しておきましょう」と言ってくれたのでこれ幸い。これで温泉に行ってもあまり人の目を気にせず済みそう。

もうさすがに慣れましたよ。前夜も熟睡。手術前でも緊張無し。「手術室から呼ばれましたー」と看護師さんが呼びに来たので「うっしゃ、じゃあ行くかあ!」と颯爽と点滴棒をガラガラと押して自分の足で向かいます。(どこが颯爽じゃ)
一応先生の事前説明では、お腹を開けての腹部の癒着状況次第だけど、早ければ2~3時間、でももしかしたら半日仕事になるかもねとの事でした。
手術室に入ってスタッフの皆さんに「よろしくおねがいしまーす」と言いながら、「意外と狭い手術室だなー」とか思ってたりして余裕綽々(のはず)。いつもと同じく体を丸めて背中に鎮痛剤用の管を入れて、仰向けで色々機器の取り付け、マスクを付けられて「じゃあ流しますよー、ゆっくり深呼吸してくださーい。1、2、3・・・(はい落ちたー)」。

「終わりましたよー、判りますかぁー?」と先生に起こされます。それにしても麻酔と睡眠は全く感覚が異なります。睡眠は寝た時点から朝起きるまでの時間感覚がありますが、麻酔はそれが全くありません。麻酔で「落ちた」次の瞬間に目が覚めます。(私の経験では)夢も見ません。
それにしても今回は術後の体が結構苦しい。初回の手術の時の感覚に近いです。手術室をベッドに載せられて出た所に家内がいたので「何時?」と訊くと「3時半」との事。うわあ、6時間以上の大手術じゃないか。術後の体調は手術時間に比例して悪いんだろうなあ。
後で先生に聞くと、やはり癒着が酷くて時間が掛かったそうです。癒着を外しながら一旦小腸を出して入れ直したそうです。そのためかお腹全体に落ち着かないような違和感で鈍痛があります。激痛的なものは背中から入っている鎮痛剤があるので今は大して感じません。

予定では術後一晩ICUに入るはずだったのですが、満員だったのか病室に直接戻りました。結構手術直後は一杯機械が付いてますし、血栓防止用の足裏揉み機(名前知らないので)がウィーン、ブシューとかうるさいので同室患者に迷惑なので気が引けます。
でもこの時点では「この血栓防止の奴が足裏のツボ押してくれれば気持ちいいのにねー」などと軽口を飛ばす余裕がありました。もうこれ以上手術なんかしないし、この苦しさを乗り越えれば終わりだねと思ってましたから。

14年ぶりにH病院へ入院(その3)

やっと入院当日です。入院は6/4土曜日、日曜を挟んで手術は月曜朝9時からです。
朝10時に病院の受付に行き、必要書類を確認してもらいます。手続きが終わると病棟から看護師さんが迎えに来ますので付いて行きます。14年前と同じ5階の消化器病棟です。エレベーターを下りたところにあるロビーで、まず簡単な入院生活のレクチャ。

病室に案内されると、私のベッドは6人部屋の廊下側でした。まあ2週間の予定なので暗くとも我慢できます。窓側2つとも空いてるんだけどなあ、と思ってもそうは行きません。患者の要望を聞いていると収拾が付かなくなるので、基本的にベッドは無作為にアサインされます。ただし、入院が長期に及んだり、ちょっと鬱が入ってたりすると、窓側に移してくれる事もありますが、こういうことは病室で交渉してはいけません。他の患者に筒抜けですから、我も我もとなるので決して聞いてくれません。こういう事はこっそりと病室外で看護師長に直接交渉するのです。

ベッドや病室の装備は14年前とそれほど変わっていません。病室は収納が少なくて困りますね。タオルや寝巻きがかなりのスペースをとるので下着程度しか入れることが出来ません。私は替えのパウチを10セットほど持ってきてましたのでギリギリ。ノートPCはベッドサイドにひとまず置くしかありません。
テレビはプリペイドカードを買ってそれを差し込んで観るタイプです。千円で8時間ほどだったと思います。14年前はこのカードのユニットに有線LANの差込口があって、そこからノートPCでインターネットが出来たのですが、今回それは無理。自前でモバイルwifiもって来ておいてよかったです。

入院時にいくつか「売店で買って用意して下さい」と言われる物があります。今回は腹帯とサブパッド(尿取りシートみたいなもの)を2枚ずつだけでした。14年前に買わされた、血栓防止の白タイツや肺機能アップのトライボールは今回は買わされませんでした。トライボール14年前のを持ってますけどね。
腹帯も14年前の木綿のいわゆる「さらし」タイプのものを4枚持ってきましたが、「これは最近の看護婦は使えない」との事で、マジックテープで留める新しいタイプのものを買わされました。必要数は2枚だけなんですが、これ必ず後で足りなくなって買い増しが必要になります。

初日は入れ替わり立ち代り色んな人が挨拶に来ます。担当看護師は今回はすみれチーム。H病院のナースたちは相変わらず若くてキャピキャピしています。何で系列病院のM病院とこんなに雰囲気が違うんでしょう? さすがに14年前に会った看護師さんは一人もいませんでした。でも師長さん多分見たことあるんだよなあ。
リハビリを担当する理学療法士の先生も来ます。14年前と異なり手術後はこの先生の指導の下、リハビリを行ないます。「勝手に歩いてろ」では無くなりましたが、その分手も抜けなくなりました。なお、このためだと思いますが、病室で使う履物は踵のあるものに指定されてました。そのためクロックス率が非常に高いです。
次に家内と2人で呼ばれて麻酔担当医師からの説明を聞きます。これは何度も手術を受けているのでいつもと同じ。最後は執刀医のKb先生と別室で手術の説明を受けます。主担当医はKb先生、副担当が30代中盤に見える若いS先生です。家内には悪い事は話してないのですが、ここでKb先生が手術のリスクの話を始めて「あちゃ~」でした。腸のヘルニアや短腸症候群の話しはあえてして無いですからね。まあそれでも家内は落ち着いて聞いてたので幸いです。後で「知ってたの?」と訊かれて「ど、ど、どうだったかなあ」ととぼけましたけど。

その夜はニフレック前に食べるようなレトルトのシチューが出ました。小腸しかないのでニフレック洗腸はしませんが、翌日曜からは絶食です(水分は前日までOK)。点滴も日曜から始まります。
まあ今回で4回目の開腹手術。もう入院慣れ、手術慣れしてるのでどうってことは無いです。でも手術はこれで最後だなあと考えながら月曜日を迎えます。

14年ぶりにH病院へ入院(その2)

泌尿器科では前立腺癌の恐れもあるのでPSA検査(腫瘍マーカー)をしましょうと言われました。「癌?」がぁ~ん!それは考えてなかった。どうせ前立腺肥大か何かだろうと思ってましたから。え~とがん保険は入ってるから、まず確定診断で百万くらいは出るよなあ~とか人事のように虚ろになって帰宅。もちろん家内に「癌かもしれない」なんて言えません。残尿がかなり多かった(300mlもありました)ので翌週膀胱鏡検査(要するに尿道から入れる内視鏡)をして膀胱内もチェックする事になりました。なお、PSA検査は採血するだけです。
その日はユリーフという前立腺肥大用の薬を貰ってきました。これ確かにおしっこ出るようにはなるんですが、立ち眩みが強烈でした。何しろ私は上が100無い事が多い低血圧症です。立って数歩歩き出すともうくらくら来ちゃいます。これはきつい。

翌週覚悟してH病院の泌尿器科へ。採尿と残尿検査の後、膀胱鏡検査です。今回は薬が効いたのか残尿は120mlに減りましたがまだ多目です。
泌尿器科のY先生はちょっと私の本来の主治医K先生の若い頃に似たちょっといい加減な臭いもする(失礼)話しやすくフランクな先生です。膀胱鏡検査はほんの5分くらいで終了。特に膀胱内に問題は無いようです。ただ、膀胱の筋肉が大分弱っていて、そのために尿を押し出す力も弱くなっているとの事でした。
そしてPSA検査の結果は、ひとまず平常値に収まっていて、今すぐ問題は無さそうです。手術後にもう一度PSA検査をして、数値に変化があるかどうかを確認する事になりました。ひとまず手術前としてはこれで終わりです。前立腺癌は進行が遅いので、もし今ごく初期の状態だったとしても数ヵ月後の対応で問題無いそうです。
いやー、一時はがん保険でいくら下りるか、生活はそれで当分やっていけるか考えちゃいましたが、ひとまず取り越し苦労に終わりそうです。まあ2度目のPSA検査の結果を待たねばなりませんけど。
あまりにユリーフの立ち眩みが酷いので、Y先生に言うと薬をフリバスと言うのに替えてくれました。ユリーフは1日2回でしたが、これは寝る前に1錠だけでいいそうです。こちらも立ち眩みの副作用はあるそうですが、飲んですぐ寝るのでそれほど影響は出ないだろうとの事でした。

もうひとつ、H病院の入院手順は以前と大分異なっていた(系列のM病院とも異なります)のですが、入院前に歯医者に行って虫歯を治さねばなりません。もしくは手術後まで治療しなくても問題ないという証明をH病院の指定歯科医にしてもらわねばならないのです。なんと面倒くさい。
私が通っている歯医者も指定医なので、その点は問題ないのですが、昨年末に銀の詰め物が取れて1月一杯まで通っていたので虫歯はまだ無い筈。それでも「虫歯が無い」と言う証明を書いてもらわねばならないのです。歯医者にそれを書いてもらって(指定歯科での証明書代は一応タダ、持ちつ持たれつで患者増えるからね)、余計な出費で大嫌いなクリーニングもされました。

さて準備万端。手術承諾書に家内のサインも貰っていよいよ入院です。会社の様々な業務もひとまず6月一杯は放置しても大丈夫なようにしておきました。
そんなところに東京都から医療券更新の書類が、「あ~これがあったか!」K先生はこの手の書類書いてくれるの遅いから2~3週間は余裕を見て出さねばなりません。え~と今年の提出期限は・・・8月頭かあ、それなら7月に入ってから出せば十分間に合いそうですな。と言う事でひとまず放置。

今度こそ準備万端、入院です。と言う事で入院導入編はもう一回続きます。

14年ぶりにH病院へ入院(その1)

K先生の転院以降ずっとM病院に通っていたのですが、今回の手術で家内に付けられた条件が、自宅に近くて通いやすいH病院での手術でした。K先生に相談したところ、「系列病院だし、カルテも共通だし問題無い」との事。私としては信頼しているK先生(既に副院長にご出世されてます)の管理下で手術をしたかったのですが、家内の条件を飲まないと手術承諾書にサインしない(本人と保証人[家族]のサインが必要です)と言うので仕方ありません。

H病院に入院するのは大腸全摘出手術以来ですから14年ぶりです。途中泌尿器科の外来で数度来た事がありましたが、建物はそのままにせよ大分違って見えました。
何より空いています。私が通っていた頃は、人人、また人で混みあっていて、予約外来でも1時間以上待つのがざらでした。さらに会計でも1時間近く待つので辟易していました。「いつまで待たせるんだ!」と怒り出してる患者さんも多かったです。
それが、平日午前中9時頃(多くの病院で一番混む時間帯)なのにガラガラなのです。紹介状を持って消化器科外来に行っても待合所の椅子は半分も埋まっていません。しかも予約でもないのに30分ほどで名前を呼ばれました。

これというのもあまりの混雑を解消するためにH病院では紹介状が無いと受診できなくなったのです。その代りに病院向かいに新たに初診専用のクリニックを建てて、紹介無しの初診患者はそちらで診る事になったのです。もちろんクリニックで「入院必要あり」と判断された場合は本院のH病院に入院できます。
私の通っていた当時から、混雑解消に「軽症患者はできるだけ近所の開業医(かかりつけ医)に移って下さい、紹介状書きます」とやっていたのですが、埒が明かずにこういったシステムに変更したのでしょう。効果はてきめんで、これなら今通っているM病院の方が混んでいます。M病院も今では地域の中核病院として、かなり遠くからも患者がやってきているので、ずいぶんと混むようになったのです。
※ここまで書いちゃうと地元の人ならどこだか判っちゃいますね。まあ別に個人名以外は伏字にすることも無いんですが、悪いことも書くので一応マナーとしてイニシャルにしてます。

看護師さんたちのスタイルも変わりました。昔は白衣で看護師さんが自分で好きなものを着てよかったと聞いたのですが、今はお揃いのえんじ色のプルトップの制服です。米国の病院のようだと言うとイメージが判ってもらえると思います。
しかしそれ以外は昔のままのH病院でした。いくらか増築もあってレイアウトが変わりましたが、受付や案内のお姉さん、看護師さんたちから受ける雰囲気は昔のままで、懐かしい「ホームに帰ってきた」感があります。

さて、M病院のK先生から行くようにと指定されたのは、40代で今が医師としての円熟期に見える消化器外科のKb先生です。これも紛らわしいイニシャルだなあ(笑。というかK先生とKb先生は2文字目の子音まで同じなので仕方ないです。
Kb先生は非常に人当たりのいい穏やかな先生です。患者の話を最後まで聞いてくれて、それから話し始めるのは非常にいいですね。信頼が置けそうな気がしました。ざっとした話しの後にお腹を見てそれからお尻を見てくれました。お尻は漏便の消化液でただれているので、「あーこれはお辛いでしょう」と同情的。「もう一度詳細なCT検査をしてそれから決めましょう」となりました。M病院でも3月にCTをやっていますが、造影剤を使わない簡略なものだったために、手術前に造影剤を使ってストマから肛門までを重点的に確認したいとの事でした。翌日にCT検査をしてその後もう一度Kb先生の外来に今度は予約で行きます。なかなかすぐに手術とは行きません。

1週間後の外来、Kb先生はCTの映像を見て「これは思っているより大変な手術になりますよ」と言いました。まず、私は全く気づいていませんでしたが、腹膜から腸が飛び出てヘルニアになっていました。そのため腸閉塞の可能性もあったそうです。ちょうど正中(お腹の真ん中、縫った後の場所)の皮膚直下に腸が癒着しているため、かなり時間をかけて慎重な作業が必要になるそうです。また、数度の開腹手術を経ているため、癒着がどの程度か判らず、状況によっては腸が短くなり「短腸症候群」になってしまう可能性も指摘されました。短腸症候群になると今以上に水分の吸収が阻害されますし、栄養も吸収が悪くなるので、今よりQOLが悪化する可能性もあるとの事でした。
私としてはそんな大事の手術になるとは思っていませんでした。前回の2孔の一時ストマ造設手術が比較的簡単にサクサクと終わったので、それをちょっと手直しする程度のものだと思っていましたが大間違い。K先生もそんなに大変だとは言ってなかったじゃないかあ。

しかし、そういった負のリスクをちゃんと患者に説明するのも医師の務めなのです。どんな手術にもリスクゼロはありません。特に開腹手術の場合は、最悪死に至るリスクも結構あるのです。私はリスクを知った上で「それでも手術して欲しい」と言いました。Kb先生も「簡単な手術にはならないかもしれないけれど、最善を尽くします」との事で私の手術が決まりました。
最初のKb先生の受診日が4月下旬、5月には手術を受けたかったのですが、Kb先生のスケジュールの都合もあり、入院日は6月上旬、入院期間は2週間の予定で決まりました。

なお、CTで前立腺に腫れが見つかったので、入院前に泌尿器科を受診しなければいけなくなりました。私は30歳代に尿道狭窄の手術をして以降、小便の出が悪いのでこの手術が終わったら腰をすえて泌尿器も治そうと思っていたのですが、先にそちらに取り掛かることになりました。やれやれ。

予言?

約一ヶ月に渡り、発病前からの闘病記を書いてきましたが、やっと実時間と近くなってきました。いよいよ年は2016年を迎えます。

2孔ストマを作って7年程が経ちました。もうストマは生活の一部となりました。あたりまえのように、6日に1度パウチを張り替え、ストマケアを行なっています。
この体でも(押されてパウチが潰れる事を避けるため)ラッシュ時間を避ければ電車通勤も出来ますし、友人と都心でお酒を(軽く)飲んで、電車で帰る事も出来るようになりました。一人で日本中旅をすることも出来ました。海外も3回行きました。ジャカルタ、台湾、ハワイ、長距離の飛行機でもパウチ管理さえ正しく行なえれば何の問題も有りません。
この10年ほどでオストメイトの環境は驚くほど良くなりました。高速のSA/PAのほとんどにはオストメイト用トイレが付いています。主要空港も同様です。大きなショッピングモールやデパートでもオストメイト用トイレを導入する所が増えてきました。
ストマの扱いにも十分慣れました。このまま便漏れを抱えながらでも多分生きていけるでしょう。しかし、しかしなのです。どうしても便が漏れるのが嫌なのです。毎年のように家内には相談しましたが、「今じゃなくてもいいじゃない」「もう少し待って」と言われてきました。しかし私自身がもう精神的に限界を感じてきました。

そして2016年、私はどうであろうと今年手術をすると決断しました。家内も渋々ですが同意してくれました。私の一存だけでも手術は可能ですが、入院した場合家族の協力は不可欠です。やはり家内の同意は私にとって必須でした。
K先生に相談して今春に手術を行なうことが決定したのです。

家内は「絶対に上手く行かない気がする。このまま寝たきりになる気がする。」と不吉な事を言います。しかしあいつの言う事は結構当たるのです。何事も慎重に進める事が肝心です。

永久人口肛門への憧れ

数年前(というか2012年)、ウェブ業界に限界を感じた私はその業界を離れて、別業種の会社を興すことになりました。たった一人の株式会社です。今は1円ででも株式会社作れますからね。業種は航空関係のIT系ビジネスといったところです。ほとんどはPCの前での作業ですが、取材のために飛行機に乗って各地を周る事もあります。

その頃からやっと人並みに動けるようになって来ました。それまでは体力自体がなかなか回復してこなかったこと(ずっと自宅での座り仕事なので当然ですが)、2002年の手術後から続く低血圧(上は100無い事が多いです)による立ち眩み。80くらいだと目の前が真っ白になって倒れそうになります。そして、歩き出すと肛門が開いて漏便してしまう事により歩くこと自体が不快な事が原因で、外を歩くという事が苦手になってしまい、それを避けるようになっていたのです。
それが、大腸全摘出から10年が経ってやっと便がそれなりに硬くなった事が大きいと思いますが(ただしいまだに水便はありますし、硬いといっても泥状便の範疇です)、歩いての漏便が多少楽になってきたのです。

会社事務所を都心部のレンタルオフィスに置いたので、手術後初めて定期を買って電車通勤を始めました。もちろん「社長(爆笑)」なのでラッシュ時に通勤する事はありません。十分に朝のラッシュが終わってから昼前に出社です(笑。
これによって徐々に歩く事に慣れてきました。ストマのパンク等はこの頃には気にしなくともよくなっていましたし、パンクしたとしても十分対処できるようになっていました。歩き始めれば体力も回復してきます。血圧値はそれほど変わりませんでしたが立ち眩みもずいぶんと良くなって来ました。

電車だけでは無く、飛行機にも乗れるようになりました。最初は上空でパンクしたらどうしようと不安でしたが、いざ乗ってみればそれは杞憂でした。暴飲暴食して飛行機に乗るのはお勧めしませんが、乗る前に飲食を控えれば高空でガスが溜まってパンクというのも防げます。また飛行機代も障害者なので多少安いです(国内便だけですが)。
旅先でホテルにも泊まりました。さすがにシーツを汚すのが怖いので、紙パンツを履いて寝ていました。空港の周りを10キロ以上一人で歩いた事もあります。さすがに便漏れでお尻がデロデロにただれてしまいました。

こうなると私の敵はひとつだけ、「便漏れ」です。それさえ無くなれば普通に生活できます。ストマ管理さえしっかり出来ればズボンを汚す心配もなくなります。お尻の痛みともおさらばです。紙パンツとも縁が切れるでしょう。もし潰瘍性大腸炎が指定難病から外されて医療券を切られたとしてもダメージは少ないです。
もう肛門機能による便漏れの改善の見込みは無いと思われます。2ヶ月ごとに訪れるK先生の外来日に切々と訴えていましたが、とうとうK先生も諦めて「永久人口肛門にして、お尻は塞ぐしかないね」と言いました。そもそも前回の手術から私は永久人口肛門にしたかったのです。

これでほとんどの堀は埋まりました。後は家内の説得だけなのですが、家内はもう一度だけ手術を受けたいという私の希望に頑強に反対していました。
全身麻酔による開腹手術は、ずいぶんと安全になったとは言え現在でも一定のリスクをはらんでいます。麻酔事故の可能性もありますし、手術自体上手くいくとは限らないのです。QOL向上のために手術したとしても逆にそれを下げてしまう可能性もあります。
家内はそういったことに恐怖を感じているようでした。どうもこれまで比較的順調に手術が終わったけれども、次の手術こそ失敗して死んでしまうか寝たきりになってしまうのではないか?と考えているようでした。「今、以前に比べたらずいぶんと良くなって普通に動けているじゃない、今手術する必要は無いんじゃないの?」と言われてしまうと私もそうかなあと考え込んでしまいます。確かにリスクはあるのですから。
しかし、便漏れで痛むお尻のびらんに軟膏をすり込むたびに、永久人口肛門への憧れは強くなっていったのです。

障害者手帳と障害年金の申請

2孔ストマの便漏れと戦いながら数年が過ぎました。陥没はさらに進み、便量の1割くらいは肛門から漏れているのではないかと思います。水便がダラダラお尻を汚す事もしばしばですし、Jパウチで水分の抜けた硬い便がなかなか出ずに浣腸で流し出す事もありました。切開の後遺症で括約筋が弱り、我慢する事も便を押し出す事も出来なくなっているのです。
幸いにして痔ろうはその後完治し再発もありません。この点では満足していますが、肛門機能をほぼ失ってしまったのでもうストマを閉鎖する事は無理でしょう。一生ストマ生活を続けねばなりません。ストマ自体は2孔ですが、実質永久ストマと変わりなくなってしまいました。しかもお尻の便漏れ付きです。

このために主治医のK先生と相談して障害者手帳を取得する事にしました。
これは要件さえ満たしていれば比較的簡単です。指定医(大抵の総合病院なら大丈夫)に診断書を書いてもらい、自治体に申請すれば通ります。一ヶ月ほどで手帳を貰えます。要件を満たしていればですが。問題は年金の方です。

人口肛門だと国民年金では障害年金は出ませんが、厚生年金は出ます。この点多少調べたのですが、私の場合ストマ造設が会社を辞めて個人事業を始めた後だったので、ずっと出ないものだと思い込んでいました。
ところがある時ネットで調べ物をしている時に偶然見つけた情報で発見したのです。実はストマ造設時が重要では無く、ストマが必要になる「元になった病気の初診日」こそが重要だったのです。つまりストマ造設時に厚生年金を辞めていたとしても、元の病気の初診日に厚生年金に加入していれば障害年金は出るのです。私の場合、潰瘍性大腸炎として確定診断を受けた日こそがその日なのです。

真偽を確かめに管轄の年金事務所に行きました。はい、間違いないです。ただし、手続きは結構大変でしかも審査を受けて承認されなければなりません。ネットの情報を見るとこの審査はかなり厳しく、条件を満たしていても落ちるケースもあるようです。
山ほど書類を用意しなければなりません。問題になったのが初診病院の証明書です。その年月日に初診があった証明をしてもらわねばなりません。確定診断を受けたH病院に行って相談しましたが、既に20年近く前の事になり、しかもその後電子カルテ化などの大きな変化があったこともあり、カルテ情報が残ってないと言うのです。法的なカルテの保存期間は5年なので、それ以前の事については病院に保管義務は無いのです。しかし、H病院は調査してみると言う事でこの件は一旦保留になりました。門前払いにはなりませんでしたが、病院の書類が無いと無理かもしれません。

次は自分で書く申請書類ですが、これまでの経過を詳しく書かねばなりません。実はここで落とされるケースがよくあるそうです。出来るだけ経過を詳しく、また今の状態を正確に(ただし「如何に現在の自分に年金の助けが必要かどうか」も含めて)書く必要があります。何度か下書きをしてぎっしり詰め込むように細かく書き込みました。

現状の診断書も必要です。これは障害者手帳のように指定医はありません。ストマの執刀医に書いてもらう必要があります。私の場合A先生です。こちらもある程度先生に嘘にならない範囲で障害を強調するなど言い含めておく必要がありそうです。私の場合2孔の一時ストマであっても既に肛門機能の問題で戻せないという事を強調してもらう必要があるのです。普通の一時ストマは支給要件を満たしません。

その他、戸籍謄本等自分で必要な書類を揃えてH病院の結果を待ちました。
2週間ほど経ち、H病院から「用意できる」との連絡を貰いました。通院の情報が残っていたのと確定診断をしたO先生がまだ在籍しているので、書いて下さったそうです。
さあ書類は揃いました。年金事務所に書類を提出します。審査には2~3ヶ月掛かります。私は全て自分で行ないましたが、あまりに用意するものが多く、また書くのも大変なため、社労士に依頼する事もできます。私は社労士に依頼するという発想自体が無かったため自分で行ないましたが(笑。

その後、なかなか来なくてハラハラしましたが、無事認定され受給が始まりました。額としては年間80万円に満たず、これだけで生活していくのは無理ですが、外で働き難いオストメイトにとってはありがたいお金です。
なお、障害年金はストマを作ってから数年後に申請しましたが、それを遡ってお金が出ることはありません。あくまで申請後から受給が始まります。また、障害者手帳も障害年金も更新手続きがあります。難病医療券ほど面倒な手続きではありませんが、受給要件を満たさなくなれば切られてしまいますのでご注意を。

痔ろう手術その後と便漏れとの戦い

ともあれ二度目の手術を経て私の複雑痔ろうは全快しました。拳が入るほど切開された私の肛門が見た目上元に戻るには3ヶ月以上掛かりました。しかし括約筋ごとバッサリと切った私の肛門が以前のように閉じる事は無くなりました。

あまりに傷がむき出しのため、お風呂に入るのが怖かったのですが、いざ入ってしまえばそれほど気に病む事はありませんでした。出血が止まって肉が盛り上がってくれば、本来の皮膚とそれほど変わらず、そこから雑菌が入ることも無いでしょう。むしろ、清潔にしない方が感染症の危険が高まります。ただ、便漏れもあって、私のお風呂に入る順番は家族の一番最後です。湯船を必ず汚してしまいますから。

痔ろうが無くなったことにより肛門の痛みや化膿による炎症から開放されたので、気分は楽になりましたが、2孔ストマの陥没状況は徐々に進んでいき、それとともに肛門への便漏れ量も増えていきました。
痔ろう手術前は固形物の漏れは括約筋で防ぐ事ができたのですが、手術後はまったく力が入らず、ほぼ垂れ流し状態になってしまいました。パウチに一度入ったものも水便だと横になった際に吸い込んで肛門に流れ出てしまう場合もありました。
全体の便の量からすると1割にも満たないのですが、必ず便が漏れて来るので対処が必要です。最初は女性用生理ナプキンを当てていましたが、泥状便や固形便を受け止めきれないので、外出時は大腸全摘出前のように紙おむつ(リハビリパンツ)常用になってしまいました。
また、就寝中も便漏れが起こりますので、いつも私の肛門から尾骨周りは汚れています。それが段々とびらんになってしまい、かなり痛むようになりました。

Jパウチでの肛門排出による便漏れに加えて人口肛門の手間や装具のトラブルなどの可能性も加わって、せっかく手術を繰り返して苦労したのに二重苦の状態になってしまいました。この点では「何でいつも上手く行かないのかなあ?」と 運命を呪うしかありません。
しかし、割とこの後私は吹っ切れて、自宅にこもりがちだったのが段々外出の機会が増えていきます。既に大腸全摘出から5年以上経ち、便も大分水分のコントロールが効くようになってきました。外出する時は朝から飲食を制限すれば便漏れも最小限に出来ますし、いざ外で飲食して便漏れが発生しても紙パンツを履いているので臭い以外はどうにかなります。

外出時にパウチがパンクする事もありました。最初は大変な思いを何度かしましたが、これも慣れが段々解決していきます。パンクのパターンも段々読めてきて、旅行に行く場合はいつパウチを交換すればいいのか、食事はどのように取れば被害を最小限に防げるかが判ってきます。また何を常備しておけばいいかも。
一度自家用車で東京から名古屋まで仕事で行く機会がありました。名古屋の手前のSAで休憩している時にパウチが漏れ出しました。最近の高速SAは障害者用トイレがありますのでそこで交換したのですが、上手く付かなかったのかすぐまた漏れ出しました。しかし替えのパウチは既に使ってしまい手持ちは無し。止む終えず一日目の予定をキャンセルし東京の自宅へ戻り、入浴とパウチ交換、そして替えのパウチを数枚持って再び名古屋へと、一日千キロ以上走破した事もあります。こういった経験を繰り返して段々オストメイトとして鍛えられていきます。
最初は自家用車での外出オンリーでしたが、段々電車やバス、そして飛行機まで使えるようになって来ました。
その辺の色々なハウツーやエピソードはいずれまとめて書きたいと思います。

こんな感じの日常がこの後数年続いていきます。

痔ろう根治手術(二回目)

陥没ストマのために多少便漏れが肛門からあるのが気がかりですが、スケジュールに従って二度目の痔ろう根治手術を受けることにしました。今回はM病院では無く、K先生に紹介された隣県にあるT肛門病院です。私の住んでる地域の私鉄駅のホームには大抵この病院の看板がありますので、地域では結構有名な病院だと思います。痔ろう手術は経験の豊富な専門医が望ましいのであれば、一回目の手術もこういう医療機関を勧めてくれればよかったのにとも思いました。

自宅から鉄道で行くと2回乗換えでかなり遠回りですが、自家用車ならほぼ一本道で30分程度で着きます。早速紹介状を持って受診しに行きました。
古い建物の外来は独特の感じで、診察室のドアが5つほど並んでいます。もちろん全て肛門科ですが、患者はその前に一列に並び、自分の名前が呼ばれたドアに入っていきます。中に入ったらすぐに診察室ですが、5つほどに分れた診察室は中では繋がっており、パーティションで区切られているだけなので隣の診察の会話がもろ聞こえなのはちょっと困りますね。すぐにズボンとパンツを下げて診察用ベッドに横向きに寝かされます。
まあ大体のことは紹介状に書いてある訳なので、ちょっと患部を見たらもうズボンを上げて椅子に移動し、「いつ手術が良いですか」となります。

決まった事は、今回は再発の可能性が高い「括約筋温存手術」では無く「開放法」で行う事になりました。私の場合かなり深い複雑痔ろうなので括約筋をバッサリ切ってしまうと、術後の回復が長期にわたる事に加えて、肛門機能に(便漏れなどの)後遺症が残る可能性もあるのですが、既に人口肛門化していると言う事で、一度の手術で完治が見込める開放法の方が望ましいと言う事になりました。
開放法は以前行なった「括約筋温存手術」とは違い、本当にバッサリ肛門と痔ろう部分を切り開いてしまうので、肉が再びくっつくのに数ヶ月を要しますが、患部は全く残らないので再発の可能性はほとんどないというのがメリットです。局部麻酔で行い、入院期間は1週間です。

早速入院して手術。手術自体はものの10分くらいで終わります。外来も手術もまるでベルトコンベアーに乗せられたように次から次へと行なわれるのは肛門専門病院の特徴なのでしょうか? 手術後執刀医がカメラで患部を撮って、それをその場で見せてくれるのですが、哀れ私の肛門は拳が入るほどぱっくりと割れて広がってしまいました。結構ショッキングな写真でした。

術後は痛み止めを飲みながら患部に当てているガーゼを頻繁に取り替えていきます。やはり少しストマから肛門への便漏れが少しあり、切った後が便で汚れるのが気になります。しかも古いこの病院のトイレは昔の学校のトイレレベルで、ウォシュレットも無いどころか和式なのです。なので患部をいつでも清潔に保つ事ができません。これには困りましたが携帯ウォシュレットを使ってどうにか凌ぎました。

食事は腸管を切ったわけでは無いのですぐ始まります。病院食としてはH,M病院とは雲泥の差で、かなりおいしい部類だと思いました。
退屈な入院生活でしたが、ちょうど近くに自衛隊基地があり(知ってる人にはどこの病院かすぐ判りそうですが)、飛行機好きの私としては着陸態勢の自衛隊機を毎日見ることができて楽しかったです。

長期の入院を何度も繰り返している私にとっては、あっという間に退院です。と言っても患部はまだぱっくりと開いたままです。帰りにガーゼを買って行き、自宅で患部のケアをしていかねばなりません。
患部に漏れてくる便が沁みますが、あれだけ大きく切開した割にはそれほど痛みはありません。自宅に帰って初めて大きな鏡でまじまじと患部を見ましたが、気の弱い人なら結構ショックなほど大きく切開されています。果たして元通りになるんでしょうか? 私としてはこのまま一生人口肛門の方が楽だと既に腹の内は決まっていましたが。